哲学入門 〜 あなたにしか考えることができないことを、考えるために。

最終回「自由とは何か──あなただけが考えることのできることを考えるという自由」

杉本  隆久

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連 載

前回は、哲学的思考とスタイルの確立の実現について見てきました。最終回の今回は、これまで見てきた哲学的思考と自由について考えてみたいと思います。

 

 

 

 

私の生を否定する自由とは?

 

ところで、哲学的思考によって、「そうでしかありえないこと」しか考えることができないのであるならば、そこに自由はあると言えるでしょうか。例えば、イマヌエル・カント(1724 - 1804)という有名な哲学者は、傾向性や外的な原因に依存せず行動できることを自由であると言っています。つまり、カントのいう自由とは、自分が「できる」ことのみをすることでも、また物体のように外部の原因に動かされることでもなく、原因と結果の物理法則からなる自然の世界の中で、自らの意志を原因とし、それに従って行動するということです。

 

こうした意志を私たちは自由意志と呼んでいますが、自由意志は私の特異性を否定することになります。なぜなら、私たちは自由意志によって「AでもBでも選ぶことが可能」ですが、もしAを選んだとしても、「Aでなくてもよかった」わけで、偶然選んだに過ぎないからです。また、「Bでもよかった」という意味で他のものを選ぶ可能性──代替可能性──の中で選んだとも言えるでしょう。

 

このように見ると、普段、私たちが考えている自由が、いかに常識的思考に根差した考え方であり、今ある現実の生を否定し、別の理想的な生への願望を含んだ概念であるかがわかるでしょう。

 

 

あなたの自由について

 

ところで日本語の「自由」は、「自らに由る(おのずからによる)」、あるいは「自からを由とする」から来ていると言われていますが、これは「自身に基づく」、あるいは「自身を原因とする」ということです。だとすると、カントの言う自由も自らの意志に拠っているわけですから、「自身を原因」としていると考えることもできそうです。しかし、カントの自由は自らの生に拠るものではなく、そこから乖離し、結果的に自身の生に不誠実である以上、「自身に基づく」ものであるとは言えないでしょう。

 

それに対して、「そうでしかありえないこと」だけを考える哲学は、まさしく「自由」であるといえます。あなたにしか考えることができないことを考えるということは、「自身に基づいた」ことだけを考えるということですし、こうした思考──あるいは、構想に円環的──に条件づけられたあなただけができる実行は、「自身を原因」とする自由な行為[注1]であるわけです。

 

先に見た火宅の中の子どもを助ける親ならば、自らの原因である本性に促され──あるいは、自らを駆り立てて──「助ける」という実行を決断し、おそらく火の中に飛び込んで行くことでしょう。これが自由なのです。「君は君の行為そのものに宿っている。君の行為こそ君である」とメルロ=ポンティは言っていましたが、あなたはあなたの自由そのものに宿っているとも言えるでしょう。つまり、あなたの自由こそあなたであるのです。

 

 

考えることを始めよう

 

自分で考え始めることでしか、私たちは自由であることができません。ですから、もしあなたが自由でありたいと願うなら、考えることを始めなければならないでしょう。あなたにしか考えることができないことを考えるということ。それは自らの特異性の肯定であり、自由であるということなのですから。

 

 

〈連載の終わりに〉

 

哲学史家のエミール・ブレイエ(1876 - 1952)が『現代哲学入門』(岩波新書)という本の書き出しで、「哲学は何処へいっても評判がよくありません。……人間の行動に直接関係のある根本的な問題は科学的知識の進歩によってしか解決ができないと極まっているから役に立たず、……反対派は同じ議論を何にもならないのに厭になるほど繰り返しているところを見ると、とにかく無駄なものだと考えています」[注2]と書いているように、哲学的思考によって考えられたものは万人に役立つような普遍的な科学的知識ではない故、最善の解答を求める者たちとっては、間違いなく「役に立たない」「無駄なもの」であるでしょう。

 

とりわけ、結果を重視し科学的客観主義を標榜する功利主義ならば、先に引用した火宅の中の子どもでさえ容易に見捨てることも厭わないかもしれません。しかし、哲学だけがあなた自身の特異性を肯定し、あなたの生に誠実な生の様式を実現するものであることもまた確かなのです。また、少なくとも私の身体における実用性[用語1]という見地から考えるならば、哲学的思考は有用であることに違いありません。その意味で、こうした哲学的思考は、身体にとっての実用的見地からの哲学ということもできるでしょう。つまり、こうした哲学は身体に根拠を置いたある種のプラグマティズム[用語2]なのです。

 

いずれにしても、世の中の多くの人々が、道徳や社会によって定められた価値に縛られて生きている中で、哲学だけが自分自身にとっての価値を創造し、同時にその価値によって価値づけられた生き方を創造することができるのです。おそらく、あなたにとって大切なことは、マイケル・サンデル(1953 -)が言ったようなこれからの「正義」の話をすることではなく、あなたにしか考えることができないことを考え始めることなのではないでしょうか。

 

 

今ある現実を誠実に生きようとすることを「それでいいんだよ」とそっと支えてくれているように思います(首都大学東京大学院 人間健康科学研究科 博士後期課程 看護科学域 村上優子)

 
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哲学入門を志す人のための読書案内 ⑥

 

優れた哲学書は、自分自身で考えるための良き伴侶となることでしょう。ここでは、自分自身で考え始めたいと思っている方のために、良き哲学書をご紹介します。

 

本を読むということは、思考することと同じです。それは、本を読むことによって、独自の解釈を創造することだと言えるでしょう。ですから、「読書こそが、自分でものを考える力を養っていく」と言えるのです。

『道徳形而上学原論』(イマヌエル・カント/岩波文庫)

カントの言う自由について考えてみたいなら、まずはこの本を読むことをお勧めします。カント哲学の入門書ということができるかもしれません。この本は、カントの墓碑に刻まれた「我が上なる星空と我が内なる道徳律」という言葉が出てくる『実践理性批判』への序論と言われています。

 ところで、本文ではカントを批判的に論じましたが、それはカントが自分自身で思考したということを否定するものではありませんし、またカントが極めて重要な哲学者であるということを否定するものでもありません。なぜなら、哲学は科学のように乗り越え可能なものではないのですから。

 

 

『エチカ(上、下)』(スピノザ/岩波文庫)

人──もちろん、人間一般のことではありません──はここまで考えることができるのだという思考の極北を私たちに示してくれる哲学書です。この本は、哲学史上、いや歴史上、最も重要な著作であると言えるでしょう。本文の注に記した内と外との出会いとしての自由について書かれているわけではありませんが、スピノザはこの本の中で、常識的な自由意志を徹底的に批判し、優れて非常識な──ある意味で、「自身を原因とする」──自由を提起しています。決して、わかりやすいとはいえませんが、ぜひとも一読しておくべき著作であると言えるでしょう。

 

 

『現代哲学入門』(エミル・ブレイエ/岩波新書)

「連載の終りに」で引用したので紹介しておきます。この本は、フランスの哲学史家エミール・ブレイエが、20世紀初めから中頃までの思想的情況について書いた本です。概説的な内容ではありますが、ブレイエ独自の観点から書かれているので、いわゆるニュートラルな概説書とは異なる興味深い「入門書」であると言えるでしょう。哲学史に興味がある方は、ブレイエの『哲学の歴史(1~3)』(筑摩書房)を読んでみるのもいいかもしれません。

 なお、本文で言及したメルロ=ポンティとブレイエには浅からぬ因縁があります。『知覚の現象学』(1945)を出版した翌年に、メルロ=ポンティは「知覚の優位性とその哲学的諸帰結」というテーマで発表を行ったのですが、質疑応答の際にブレイエはメルロ=ポンティの哲学を批判し、最終的に「あなたの考え方は、哲学よりも小説や絵画において表現される方がいいと思いますね」(モーリス・メルロ=ポンティ『メルロ=ポンティは語る』、御茶の水書房、p.43)と言っています。彼らのやり取りに興味を覚えた方は、『メルロ=ポンティは語る』を一読されてみてはいかがでしょうか。

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