"A Room of One's Own"

(First edition cover)

September 1929,

Hogarth Press, England, Harcourt Brace & Co., United States.

ヴァージニア・ウルフがみた
ナイチンゲールの心の叫び

文 ──

小川 公代

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誰もが知るクリミアの英雄ナイチンゲール。しかし戦地に赴く前の彼女は、上流階級の娘の役割とされた〈家庭の天使〉であることを強要され、自己実現できる場も時間ももてないことに絶望していました。そんな彼女の自伝的小説カサンドラは、「女性」の視点から当時の上流・中産階級の女性たちに共通する苦悩を吐露し、社会慣習を痛烈に批判した現代のフェミニズムにも通じる異色の小品です。各方面でご活躍されている気鋭の英文学者、小川公代さんに本書の魅力を論じていただきました(編集部)

*この記事は月刊「看護」2021年6月号のSPECIAL BOOK GUIDEにも掲載されています。

  ヴァージニア・ウルフのナイチンゲール観 

 

フローレンス・ナイチンゲールといえば、クリミア戦争(1854~56)に従軍し、負傷兵たちの看護の指揮を執り、英国軍の死亡率を劇的に下げた国民的英雄である。何千何万という負傷兵たちを支え、あるときは兵士の足がノコギリで切断されている間、その絶叫と切断音を聞きながらも患者のもとを離れないような女性でもあった。また彼女は、医療現場にさまざまな変革をもたらした。病院は最下層の人を収容するための不衛生な場所であるという19世紀イギリスの医療の観念を根本から変え、医療施設における衛生管理を徹底させただけでなく、看護ケアについての知識を広めるために『看護覚え書き』(初版1859年)を出版した。

 

モダニズム作家のヴァージニア・ウルフ自分ひとりの部屋の中でナイチンゲールに言及しているのだが、このように公衆衛生や看護教育の分野で大きな改革を起こした人物からはまるで乖離したイメージである。ウルフは、才能を社会のために使おうとして周りに白眼視され、あるいは妨害され、そのせいで苦しめられた女性としてナイチンゲールを思い描いている。

 

みなさんのお祖母さん、ひいお祖母さんの中には、目が潰れるほど泣いたひとがたくさんいらっしゃいました。フローレンス・ナイチンゲールは苦悩のあまり悲鳴を上げました1)

 

ウルフの注釈には、この出典はレイ・ストレイチー『大義(1928年)収録の「カサンドラ」と書かれている2。すなわち、ウルフは数々の試練に打ち勝った英雄的な女性ではなく、男女間の機会獲得の差異に苦悩した自伝的小説『カサンドラ』のヒロインを心に思い浮かべていた。そして、この主人公ノファリアリこそ、ナイチンゲールが看護の道を究めるまでに女性として経験した数多くの苦しみを体現している。

 

もともと「カサンドラ」は『思索への示唆』に含まれていたが、ナイチンゲールの存命中に公式出版されておらず、ストレイチーの『大義』の補遺として収録されたのが初であった。

『カサンドラ』

  F・ナイチンゲール著

  木村正子訳

  日本看護協会出版会

誰もが知るクリミアの英雄、ナイチンゲール。しかしクリミア以前の彼女は、上流階級の娘の役割とされた〈家庭の天使〉であることを強要され、自己実現できる場も時間ももてないことに絶望していた……。「女性」の視点から、当時の上流・中産階級の女性たちに共通する苦悩を吐露し、社会慣習を痛烈に批判した、現代のフェミニズムにも通じる異色の小品。

「カサンドラ」は最初、小説スタイルのフィクションとして書かれたが、後にナイチンゲール自身の手によりエッセイスタイルに変更された。「エッセイ版」は「小説版」のフィクション的要素をなくし、現実味のある内容のみが残されている。本書は本邦初「小説版」の日本語訳である。なお「エッセイ版」の日本語訳は『ナイチンゲール著作集 第三巻』(現代社)に所収されている。>> 詳細

ヴァージニア・ウルフ

Virginia Woolf, 1882‐1941

ロンドン生まれ。文芸評論家のレズリー・スティーヴンの娘として書物に囲まれて育つ。1904年より、知人の紹介で書評やエッセイを新聞などに寄稿。父の死をきっかけに、ロンドンのブルームズベリー地区に移り住み、後にブルームズベリー・グループと呼ばれる芸術サークルを結成。1912年、仲間の一人、レナード・ウルフと結婚。33歳から小説を発表しはじめ、三作目『ジェイコブの部屋』(1922)からは、イギリスで最も先鋭的なモダニズム芸術家のひとりとして注目される。

──「BOOK著者紹介情報」より

『自分ひとりの部屋』

  V・ウルフ著、片山亜紀訳

  平凡社ライブラリー

「もし、シェイクスピアに妹がいたなら…」“女性と小説”というテーマで講演を頼まれた語り手は、有名な兄のように、支援者も、模範とすべき先達も、お金も時間も、ひとりになれる部屋もないなか、ものを書こうとしてきた女性たちに思いをはせる―イギリスで男女平等の参政権が認められた一九二八年、ケンブリッジ大学の若き女子学生たちに向けた講演をもとに、物語の形をとりながら、女性の文学の歴史と未来への期待を見事に紡ぎ出したフェミニズム批評の古典。

──「BOOK」データベースより

『カサンドラ』に託したナイチンゲールの心の叫び 

 

本作は、結婚せずに社会貢献する道を望んで家族に反対されたノファリアリが、神経衰弱に陥り自殺願望まで抱くようになるという物語である。性規範に厳格なヴィクトリア時代においては、社会で優遇される男性とは違い、中流階級以上の女性はみな〈家庭の天使〉の名にふさわしく、家族のために尽くす従順な存在であるとみなされていたが、ナイチンゲールもまた看護師になる情熱を家族には認めてもらえなかった。カサンドラというのは、アポロン神の求愛を拒否したばかりに予言の力を持ちながらも誰もその予言を信じなくなるという運命を背負わされた女性のことだが、ナイチンゲールが小説のタイトルにこの名を冠したのは、自身の立場と重ねたからであろう。

 

ナイチンゲールの懊悩や心の悲痛な叫びは、ノファリアリによって代弁される。裕福な家庭に生まれ、何不自由なく暮らすことのできる身分ではあったが、ディナーやパーティなどで「来客のもてなし」(カサンドラp.87)に自分の時間を捧げなければならず、女性であるというだけで男性と同じ社会活動を許されない。「この因習に満ちた社会は男性が女性のためにつくったもの。そして女性もこれを受け入れてきた。(中略)ああ、この惨めな苦しみよ、人間の女の悲しい性よ!」(同p.8)、そう悲嘆にくれるノファリアリはそのままナイチンゲールの言葉であっただろう。

 

女性が社会に出て「英雄的行為」(同p.47)を実践するためには、女性の教育やそれによって獲得される「内面の発達」が広く社会に承認される必要があるとノファリアリは言う。というのも、彼女によれば、その承認がなければ「翼を備えて」いる女性でも、「いざその翼を試そうと思うと(中略)足元が石化して、地面と一体化し、ブロンズの台座に繋がれたまま」も同然だからだ(同p.86)。彼女は、現実社会で飛翔することを許された兄フォリセオに向かってこうも言っている。「私には、少なくともあなたと同じくらいの力があると思う。(中略)特別な天与の力をもっていても、その力の育成を因習のために犠牲にしなくてはならない人がいれば、その人の死によって、この世は後退する!」(同p.100)。ここでの「死」は当然比喩的な意味で用いられているが、数多くの19世紀イギリスの女性が自身の才能を社会で生かすことなく「死」を迎えていたのだとすれば、字義通りの意味として解釈することもできる。

 

優れた才能を持ちながら男女の格差に悩み、自分の中にいる〈家庭の天使〉を殺されなければならないとまで表現したウルフも、『自分ひとりの部屋』でシェイクスピアの架空の妹ジュディスを登場させている。おそらく『カサンドラ』の兄妹の対話がそのインスピレーションになったのだろう。ジュディスは、天賦の才に恵まれながらも、教育を受け、社会の承認を得られた兄との格差を思い知らされ3)、苦悩の末、悲劇の最期を遂げている。

 

 

本作は、女性が知性を磨き「不滅の魂」を獲得するための機会が社会から奪われていることを切実に訴える小説である。また、ナイチンゲールと母や姉との間に生じた諍い、ジョージ・エリオットの宗教論争、ジョン・スチュワート・ミルとの関係などについて書かれたエレイン・ショウォルターによるエッセイなども収録されていて、充実した一冊となっている。

 

引用文献

1)ヴァージニア・ウルフ(片山亜紀 訳)『自分ひとりの部屋』p.98, 平凡社, 2018.

2)同上, p.99

3)同上, p.83

著者略歴

おがわ・きみよ

1972年、和歌山県生まれ。英国ケンブリッジ大学卒業(政治社会学専攻)。英国グラスゴー大学博士号取得(英文学専攻)。現在、上智大学外国語学部英語学科教授。専門は、イギリスを中心とする近代小説。著書に『文学とアダプテーション――ヨーロッパの文化的変容』(共編著、春風社)、『ジェイン・オースティン研究の今』(共著、彩流社)、『幻想と怪奇の英文学』『幻想と怪奇の英文学 2 増殖進化編』(共著、春風社)、『文学理論をひらく』(共著、北樹出版)、『イギリス文学入門』(共著、三修社)、British Romanticism in European Perspective: Into the Eurozone(共著、Palgrave Macmillan)、Liberating Medicine, 1720-1835.(共著、Pickering & Chatto)、British Romanticism in Asia(共著、Palgrave Macmillan)、訳書にシャーロット・ジョーンズ著『エアスイミング』(幻戯書房)などがある。

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