連載 ── 考えること、学ぶこと。 "共愉"の世界〜震災後2.0 香川 秀太 profile

image: Center for Disease Control and Prevention

後篇/第7回 "Post-COVID-19 Society" グローバル資本主義のあとに生まれるもの 「資本主義とポスト資本主義の グレーゾーンを問う」

連載のはじめに

 

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もう一つの可能性

 

これから述べる方向性は、おそらく現体制からすれば、「もっともあり得ない」話です。しかし、「全く」あり得ない話ではありません。なぜなら、これもまた、すでに現実に散在する未来への萌芽をつなぎ合わせた一つの方向性だからです。

例えば、建築物も、まだ現実には存在しないもの=設計図(空想)を描くことから創られます。他方で、設計図は全くの空想でもない。木材などの物理的素材、計算式、過去の建築の実績等の複数の「現実(物質)」を動員しそれら結びつけて生身の人間の手で創られる。あらかじめ設計図がなく即興的に創られていくような先鋭的な建築作品も、さまざまな現実物が素材となります。建築以外の、さまざまな先鋭的、抽象的なアートも、決して「脱・現実」ではなく、全く現実から離れることなどありえません。

 

子どもが頻繁に行い、子どもの発達を生む重要な活動である、空想の「ごっこ遊び」もそうです。彼らにとって「好きな物語」も日常生活の中で触れる現実の一つであり、例えば、顔のない普通の電車のおもちゃを、きかんしゃトーマスに見立てるなど現実にあるものを用いて空想の世界をつくります(幼いころは一日の殆どの時間をこうして過ごしますから、そうであれば、空想か現実かの区別も曖昧です)。


そもそも全く現実世界にはない、頭の中でつくられる想像作品などありえるでしょうか(これを認めるならば観念論です)。未来社会を題材にした映画やアニメや漫画などの物語は、現実を素材に創られた物語であり、かつ現実に示唆を与えます。それらはむしろ、「現実に根付いている」からこそ、生まれる新しい可能性なのです。作品にしろ、社会構造にしろ、新しいものの創造とは、現実の中から生まれるものと言えます。

 

逆に、私たちが「確たる現実」だと思い込んでいるものに目を向ければ、それは想像物であるともいえるのです。例えば、貨幣、社会的地位といった私たちが「価値あるものだ」とすっかり思い込んでいるものは、それら物質(硬貨、紙幣、電子マネーの数字、代表取締役、理事長、総理大臣云々)そのものの構造を分解したところで確たる価値を取り出すことはできない、共同幻想の産物なのです。それらもまた、現実の私たちの身体的、物質的な社会的諸動作を通して現実性を帯びるものであるという点では、実は子どものごっこ遊びと同様といえます。

 

このように、ここで描く「未来の可能性」とは、あくまで現実を結び合わせたものであるという前提に立ったうえで、新型コロナウイルスがもたらしたこの危機を、「経済中心の社会をいっそやめてみてはどうか」という地球からのメッセージだとあえて受け止めるならば、あるいは、コロナ問題以前よりあった議論をふまえて、「経済中心(あるいは消費中心)では人類もまた結局のところ持続できないのではないか」と考えたとしたら、これまで前篇で述べた方向性と部分的には重なりつつも、それとはまた違う未来の方向性が現れてきます。

 

あえて前向きに考えるなら、我々は、「経済を再びこれまで通り回すことをとにかく急ぐ前に、一度ここでちょっと立ち止まって考えてみよう」という機会を得ていると言えます(もちろん、外出制限が死活問題をもたらすことを無視しようという意味ではありません)。

 

言い換えればそれは、貨幣経済を土台とした資本主義の在り方そのものを変えていく方向です。自然と人間生活の関係性を前提から見直すものと言い換えることもできます。前篇の第5回と6回 前半の「従来の経済活動への回帰とナショナリズムの高揚」が、今までのシステムへの回帰と強化(アップデート)だとすれば、第6回後半「新しい福祉国家へ」は新しいOSの開発です。そして、これから述べる内容は、そもそもそれらの土台たるコンピュータ・システムとは異なる生態系を生み出していく方向性と言い換えられます。

 

ただし、異なる生態系だとしても、突如として全く新しいものが発生していくのが歴史ではありませんし、これまで述べた複数の方向性と同時並行で多層的に進んでいくことはおおいにありえます。完全にAかBか、どちらかで染まることもありません。移行期であれば、複数の方向性の間でいっそう揺らぐでしょう。

 

あくまでこの「複数の方向性の多層性」ということのイメージをお伝えするのに比喩を挙げれば、例えば、手紙、ラジオ、電話といった古典的な通信手段が、今の時代でもなくならずネット通信と同時並行で存続しているように、複数の方向性は現実には併存するということです──「比喩」としたのは、通信手段の変化そのものについて言いたいわけではなく、深層にある社会構造の歴史性に言及したいという意図からです──。

 

あるいは、手紙が仮にいずれ消滅するようなことがあったとしても、「遠隔交流」という手紙に含まれている痕跡自体は、その後の新しい仕組みでも残っているように、新しいものが古いものを駆逐してゼロにするのではなく、古いものは新しいものの中に何らかの形で残存・存続します。しかしながら、いずれが主要化する(他は副次化する)ということはありえます(通信で言えば、今はネット通信が主流でどんどん発展していっていますが、他は副次化します)。あるいは、これも喩えですが、一旦消滅し、「氷漬け」にされた古いものは、時代を経て「氷解」し、当時代性と結合することで新しい生命を宿すこともあります。

 

歴史とは、このように複数のものが重なりつつも、いずれかが主要化する動きなのです。

 

要するに、歴史的転機とは、これまでのものの継承、促進、発展、あるいは逆に古いものへの回帰を伴うものでありながらも、大局的、結果的には(後から歴史を振り返って区切られる変化としては)、主流のものが質的に転換していくタイミングを意味します。転機を迎えて消滅したもの、忘れ去られたものもなお、何らかの形で残存するのが歴史です。

 

実際、このあとに述べるポスト資本制(「後篇─はじめに」の表、右列「新しい社会への転換」)は、これまでの資本主義の在り方を脱していくものでありながらも、資本制の要素が全くゼロになるということではなく、むしろ新しい社会の中に含まれており依然として重要な鍵を握ります。

 

第8回へ続く)

 

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連載のはじめに

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会   (C) 2020 Japanese Nursing Association Publishing Company.

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