"The Gallery of the Louvre"
電信機の発明で知られるサミュエル・モールスは画家でもあった。この作品は1830〜1832年にかけてヨーロッパで絵画を修行した際に描かれたもの。ルーヴルの名画38作品を1つのキャンバスに模写している。
1963年11月23日土曜日の早朝のことだった。小学生だった私は眠い目をこすりながらテレビにかじりついていた。それは日米を通信衛星で結び、国際間で初のリアルタイムのテレビ「宇宙中継」が行われるという記念すべき日だったのだ。ケネディ大統領が60年代中に人間を月に送ると宣言したばかりで、それは64年の東京オリンピックをにらんで、国際間のテレビ中継を実現するための実験放送だった。すでに57年にソ連によるスプートニク衛星が打ち上げられて宇宙時代が始まり、世界の出来事は地球規模で回り始めていた。
しかし、いつまでたっても放送は始まらず、画面にはサボテンが生えた砂漠の映像が出ただけで、この実験を祝うため予定されていたケネディ大統領のスピーチ映像はついに流れてこなかった。驚いたことに、途中で突然緊急ニュースを告げるメッセージが入り、大統領が訪問先のダラスで狙撃されたという一報が入った。そして数時間後の2回目の放送では、大統領が死去したことを受け、暗殺された現地から混乱を伝える生々しい映像が送られてきた。
当時、海外の映像といえば、数カ月前の話として映画のニュースでたまに出てくるのが関の山だったが、この日は地球の裏側のいま現在の瞬間に起きている事件が、突然近所の出来事のように茶の間に侵入してきたのだ。それは映像が瞬時に世界を駆け巡る時代の幕開けを告げる事件をきっかけに、それまでの時間や空間に対する感覚が大きく揺らいだ瞬間でもあった。
19世紀のインターネット
それと同じような「事件」は、実は歴史の各場面で繰り返し起きてきた。1853年にロシアがオスマン帝国とクリミア戦争を始め、翌年にはロシア軍を阻止しようとフランスおよびイギリスの軍隊がクリミア半島に上陸した。これは史上初の“オンライン戦争”だった。
それまでの戦争に関する情報と言えば、ナポレオンがワーテルローで敗戦(1815年6月18日)した情報を誰よりも早くつかみ大儲けをした、ロンドンの情報通ネイサン・ロスチャイルドでさえ、伝令や伝書鳩などを駆使し、やっと2日後に最新情報を入手できたという時代で、大方の情報は数週間以上前のものが普通だった。ところがクリミア戦争が起きた頃には、1840年頃に実用化が始まった「電信」という新しいテクノロジーによって、情報を光のスピードで伝えるインフラがすでに存在していた。
ロンドンから数千キロも遠く離れた戦地からの情報は、電信を使ったタイムズ紙の特派員ウィリアム・ハワード・ラッセル記者によって日々届けられ、兵士が間違えて配置されたり、医療支援が不十分で多くの負傷兵が苦しんでいたりする生々しい状況が紙面に展開し、戦争は遠い異国で何カ月も前に起きた無関係な出来事ではなく、国内でいま起きているような緊迫感が誰にも感じられるようになった。
こうした状況に心を痛めていたイギリスのフローレンス・ナイチンゲールが、戦時大臣のシドニー・ハーバートの従軍依頼にすぐ応じたことはごく自然なことだった。彼女はすぐに現地に赴き、統計学的な科学的視点から野戦病院の衛生状態を改善し、大幅に死亡率を減少させることに成功し、その功績が現代の看護学に道を開くことになる。「クリミアの天使」と呼ばれるようになるナイチンゲールをナイチンゲールたらしめたきっかけは、電信という時代を変革したコミュニケーションのテクノロジーだったのだ。
しかし、こうしたリアルタイム化は混乱ももたらす。その日の戦況が毎日ロンドンに届くことで、戦地にいる司令官シンプソン将軍のところには、何も現地の状況を知らないロンドンの上官から余計な問い合わせや指令が何度も伝えられ、将軍は「これは新しい危険な魔術だ」と、リモコン戦争の引き起こした混乱に音を上げた。また新聞で報じられる戦況は、そのまままた電信を通してロシアにも筒抜けとなり、戦争の様式までが変わることで対戦の行方に影響を与えるまでになった(アメリカでも、1861年から始まった南北戦争でリンカーンが電信を活用したことにより勝利した)。
この電信という電気メディアの持つ力は、ある意味破壊的だった。当時ヨーロッパの中で起きている出来事は、通常6週間程度してしか伝わらず、その他の特殊な高速通信手段としては、1791年にフランスでクロード・シャップが考案した「テレグラフ」ぐらいだった。テレグラフは大きな腕木と呼ばれるさまざまな形でアルファベットを表現する機械を10〜30km程度の間隔で建て、腕木の示す手旗信号のような文字を望遠鏡で観測しながら、伝言ゲームのように情報を伝えていくもので、ナポレオンが国内の情報を収集管理するために活用した。1830年頃にはテレグラフはかなり普及しており、数時間でヨーロッパ全体に情報伝達することは可能になっていたが、国の管理する特殊なネットワークであり、民間にはほとんど開放されていなかった。
こうした情報伝達手段に大きなイノベーションをもたらしたのは、電気の利用だった。18世紀はまだ雷が「神の怒り」だと考えられていた時代だったが(摩擦電気は知られていた)、1746年にはフランスのジャン・ノレ神父が、金属の棒を両手に持った100人以上の一列につながった人々を並べて、その端から高圧の摩擦電気を流し、1マイル先の人が瞬時に感電することを実験で証明し、1752年にはアメリカのベンジャミン・フランクリンが凧を上げて雷が電気であることを示し、1800年には摩擦電気に頼らず化学的な方法で電気を発生させる電池が、イタリアのアレッサンドロ・ボルタによって発明された。
それ以前には方位磁石を使って、遠方にまで情報を伝えることができると考える人々がいたが、それは魔術と紙一重の扱いを受けていた。遠く離れた2つの磁石の一方を回転させると、他方が同じ方向を指し示すことでメッセージを伝えることができるという触れ込みだったが、そうした装置をガリレオ・ガリレイに売りつけようとして嘘を見破られた商人がいたという話が伝えられている。
しかし、時代は産業革命によるイノベーションがすべてを変えつつあり、それまでにない発想でさまざまな新しい発明が行われていた。テクノロジーに関する人々の理解も進み、電気を通信に用いる試みは徐々に改良が加えられ、1820年には電気を通すことで磁気を発生することを発見したハンス・エルステッドの功績によって電磁石もつくられ、電気信号の有無を検出する技術が実用化していった(エジソンが電球を発明したのはずっと後の1879年)。イギリスではウィリアム・クックやチャールズ・ホイートストン、アメリカではサミュエル・モールスなどが1840年頃に次々と電信機を実用化していった。
しかし当初は、こうした通常の人々の生活空間を超えた情報伝達の意味を理解できる人はおらず、遠方の情報を知るニーズを感じている人もほとんどいなかった。ほとんどの人々は自分の村や地域の中で一生を終え、自国で起きたことでさえも数カ月前の話の伝聞でしかなかったような時代に、遠隔地の出来事は想像もしたこともなければ、自分の生活とはまるで無関係な話でしかなかった。
そこで当初は、発明者が電信を売り込むために隣の部屋同士で情報を伝え合う実験をしても「それが何に使えるのだ?」と人々は訝しがるばかりで、手品や奇術に違いないと言って誰も理解を示さなかった。アメリカではモールスの働きかけによってようやく議会が重い腰を上げ、1844年に首都ワシントンとボルチモアの間40マイルの鉄道路線に沿って電信網が敷設された。そして同年5月にはボルチモアで開催されたホイッグ党の全国大会で大統領候補が指名されたニュースが電信でワシントンまで伝えられ、それから1時間経って同じ結果が汽車で届けられることで、初めてその速報性が確認されて評価されるきっかけとなった。
またイギリスではビクトリア女王の次男誕生のニュースが電信で速報され、犯罪者が汽車で逃走する際に電信で先に犯人の特徴が伝えられて逮捕につながるなど、鉄道より早い情報伝達が全国的に行われることによって、その効用が一般人にも理解されるようになっていった。
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>> はじめに(全4回のテーマ)
『ヴィクトリア朝時代のインターネット』
トム・スタンデージ著、服部桂訳、NTT出版、2001
19世紀に発明された電信技術により、私たち人間は即時的な遠距離コミュニケーションを初めて経験しました。それは現代のインターネットに匹敵する社会的インパクトをもたらし、近代の幕開けに多大な影響を及ぼします。情報の価値はどのように変化し、人々の仕事はどのように変わっていったのか…。興味深い歴史資料や当時のエピソードを通して描かれています。 >> 詳細