集|ナイチンゲールの越境

「犠牲なき献身」はどうあり得るのかを 考え続けるしかない。 ── 慈善と近代的職業の両立をめぐって
栗原康 × 田中ひかる × 田中ひかる × かげ

座談会

昨年末に刊行されて以来、話題沸騰の『超人ナイチンゲール(医学書院。執筆のきっかけとなったのは弊社の『カサンドラだとお聞きしました。また同じく昨年刊行した『明治のナイチンゲー大関和物語(中央公論新社も弊社の「ナイチンゲールの越境注1シリーズを参考にしてくださったとのこと。そこで両書の著者である栗原康さんと田中ひかるさんをお招きし、さらになんと田中さんと同姓同名で、栗原さんとも知己の仲のアナキズム研究者・田中ひかる教授と、看護界からは可愛いネコのイラストでおなじみの看護師のかげさんにも加わっていただき、ほかでは実現しないであろう異色メンバーによる「ナイチンゲール座談会」を開催しました。

くりはらやすし 専門:政治学・アナキズム研究。東北芸術工科大学非常勤講師。著書に『大杉栄伝―永遠のアナキズム』『はたらかないで、たらふく食べたい―「生の負債」からの解放宣言』『村に火をつけ、白痴になれ―伊藤野枝伝』など。

たなかひかる(以下、ひかる専門:歴史社会学。女性に関するテーマを中心に執筆・講演活動を行っている。著書に『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』『生理用品の社会史』『「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実』など。

たなかひかる(以下、田中) 専門:政治思想史。明治大学法学部教授。専門分野はドイツ・アナーキズム史、ロシア・ユダヤ系移民史。著書に『国境を越える日本アナーキズム―19世紀末から20世紀半ばまで』『社会運動のグローバルな拡散―創造・実践される思想と運動』『アナキズムを読む <自由>を生きるためのブックガイド』など。

看護師のかげ 現役看護師として臨床現場で働きつつ、「看護師のかげ」としてイラストや執筆などを幅広く手掛けている。著書に『現役看護師かげさんの 明日を生き抜く看護メンタル』『かげさんの実習おたすけノート』『ホントは看護が苦手だったかげさんの イラスト看護帖』など

「無償の献身」vs「近代的職業」Part 1

 

ひかる:看護を国家資格にすることにナイチンゲールは反対だったようですね。知識を詰め込むだけではダメなんだ、気持ちが大事、みたいな。

 

栗原:資格制度にすることで看護が標準化されてしまって、それに従うのが正しいやり方だと思わされることがダメなんだということですね。『大関和物語』では、大関さん注4たちは「看護師は卑しい仕事じゃない」と頑張ってきたのに、派出看護婦、今の訪問看護の看護師にだけ資格制度が適用されてしまいます注5。資格を取っていない人は警察の取り締まりの対象になってしまい、「卑しい仕事をしている人たち」みたいに見られてしまうわけです。ナイチンゲールが国家資格制度に反対したのは、こうなることがわかっていたからではないか、と本を読みながら考えていました。

 本の中では、「無償の献身」に邁進する大関さvs看護を「近代的職業」として確立させたい鈴木雅さん注6の闘いがずっと続きますよね。大関さんのように損得をすべて振り切って無償で動くときというのは猛烈な力を発揮するのだけれど、それをやり続けていったらどうなるでしょうか。実際ナイチンゲールも体を壊していますし、なおかつナイチンゲールと同じ勢いで火がついてしまった人、例えばシドニー・ハーバート注7とかは病気になって若くして死んでしまったりしますしね。でもナイチンゲール自身は、ある程度労働時間が決まっていて、その対価として給料をもらうという労働者の地位を訴えてもいるので、「無償の献身」と「近代的職業」としての看護の両方を考えていた人だと思います。

 アナキズムでは、無償のケアの力で人を助けることを「相互扶助」といいます。困窮し、行政から助けてもらえない状況でも、人というのは互いの助け合いの力を発揮しあっていけば、ある程度生きていくことができてしまうものです。新型コロナウイルスが流行った最初の頃、行政の機能が立ち行かなくなり流通も完全に止まってしまったときも、アメリカでは人々が家にある食料を公園に持ち寄って皆で分け合ったり、自発的に無料診療所ができたり、広場で開墾して野菜を作ったりしてなんとか暮らせるようになったんです。そういうふうにお金とか行政とかに頼らなくても人が生きていけてしまうというのはある種すごい力だと思います。

 それって一見、労働によって企業からお金をもらうのと対立するように見えるので、「じゃあ働かないで生きていけばいいじゃないか」と言われそうですが、意外と逆ではないかと思う。いざとなったらそうやって自分たちの力で助け合えば生きていけるというのは強みですよね。例えばブラック企業に勤めていて、労働改善を訴えたい、でも組織に逆らったらクビになってしまうかもしれないという状況になったとき、ここでクビになってもなんとか生きていけるかもしれないと思える無償の力がバックにあれば、とりあえずそこで踏ん張ってアクションを起こすことができるかもしれませんよね。一見すると矛盾しているようだけど、実は無償の力がベースにあれば、労働者も不満の声とかをどんどん上げられるのかなと思います。

 

イギリスのチャリティ文化の影響

 

田中:金澤周作さんの著書『チャリティの帝国』注8を読むと、ナイチンゲールのとった行動はイギリスだからこそという面があるのかなと思います。イギリスでは17世紀くらいから19世紀にかけて富裕層がお金を出して困った人を助けるチャリティ(慈善)を民間レベルでやっていました。そこには英国国教会やメソジストやいろいろな宗教団体が関わっていました。

 ナイチンゲール研究の第一人者リン・マクドナルドは、ナイチンゲールは敬虔な国教徒であった、という点を強調し「ユニテリアン」注9だった、という説を否定するだけでなく、神秘主義的なところもナイチンゲールの本質ではなかった、という見解を示しています。ウィキペディアでは、ユニテリアンは自由主義とか人道主義とつながるような人たちを生み出している、として、その一人としてナイチンゲールを挙げています。つまり、信仰から、彼女の行動や考え全般を説明できる、という説です。でも、国教徒だったとなると、どうなるのか。結局、信仰から彼女の全ては説明できないのではないかと思います。

 1840年代半ば~後半にイギリスでものすごい飢饉があり、富裕層はこぞって農村に出向いて、自分が感染症にかかるリスクがありながらも貧しい人たちを助けるような慈善を行っていました。先ほど金澤氏の本によると、この時代はお金に余裕がある人たちは誰もがチャリティに赴く最初の頃だったようです。それが、クリミア戦争におけるチャリティにつながっていった。セーブ・ザ・チルドレン注10はもう少し後になって出てきたし、オックスファム注11は1940年代に生まれるなど、その後もイギリスにはいろいろなNGOが出てきます。ナイチンゲールをクリミアに派遣したのはイギリス政府ですが、実際は資金は彼女が自腹を切っています。NGOの走りみたいなものですね。その後に出て来る慈善団体も民間ベースで、政府が介入しないでやっている。チャリティには、誰か困った人のために自分が何かを行い、そこから自分も喜び合える、という要素があるようです。

 ナイチンゲールや、その後に登場した赤十字もですが、困った人であれば誰でも分け隔てなく救助していて、特に貧しい人を中心に支援しました。その精神が日本にも伝わってきて、大関さんたちが生まれたのです。それが今の日本にどのように生かされてきているのかなと考えています。

 

栗原:実際、ナイチンゲールは子どもの頃から母親と一緒に近隣の貧しい村でチャリティを行っていて、その経験から看護師になりたいと思ったわけです。自分にちょっとでも余裕があれば、誰かが困っていたら分けてあげるよ、というのは本来は当たり前なのですが、それをお金に左右されない金持ちがまずやり始めて、それがその後のNGOにつながっていくと考えるとおもしろいですね。

 

看護と信仰

 

栗原:チャリティの支えになっているのが信仰です。自分にお金の余裕があり、困っている人がいたら、たとえ誰であれ、敵国の人であれ、助けずにはいられない。ある意味、「隣人愛」の徹底ですよね。隣人愛って超厳しいやつです。全然知らない人も、敵であっても助けるという。そういう信仰心がずっと根っこにある。

 『大関和物語』を読んでいて、驚くほど宗教と看護師の関係が近いと思いました。イギリスが宗教とのつながりが強いのはわかるのですが、日本の看護もここまで宗教とつながりがあったのは意外でした。鈴木さんみたいに看護を近代的な技術を用いた労働とみなした人もいますが、人を惹きつけてしまうのは、信仰心から無償で人を助けていく大関さんですよね。こういう人はやっぱり周りに火をつけてしまうのでしょうね。こういった伝播の源が隣人愛的な信仰心だというのは興味深いです。

 この本のエピローグの結びのエピソード注12が超感動的でした。大関さんの信仰心が乗り移った看護師の方が集団赤痢が発生した村に飛び込んで行って、人々を助けたけれども自分も感染して亡くなってしまった。その看護師さんは、ナイチンゲールに、大関さんになっていたのだと思います。そういった信仰心も含めた無償の力がいろいろなところに伝播していった。宗教ってすごいですね。「宗教」という⾔葉を使ってしまうと今の⾃分たちとは無関係に思えてしまうかもしれないけれど、そこにチャリティや相互扶助みたいなものも⼊れていくと、信仰がかたちを変えて伝播して人の力が火のように燃え上がってどんどん広がっていくみたいなイメージが見えてきて、いいですよね。

 

ひかる:鈴木さんはクリスチャンだったのですが、最期はお寺でお葬式をしたので、あまり宗教にこだわりはなかったようです。でも日本の初期の看護師さんはほぼクリスチャンです。女性の医師もそう。この時代に医療に関わって人を助けようとした人はだいたいクリスチャンですね。

 

田中:ナイチンゲールがクリミア戦争のときに一番苦心したのが、看護団の看護師たちの信仰心の違いをどう乗り越えるかでした。カトリックやプロテスタントだけでなく、国教会の中にも3派くらいあって、それらをいかに調停して、最終的に「宗派は関係ない。みんなで協力しよう」というところまで持っていけるかですね。信仰心のおおもとみたいなものでしょうか。それならば仏教でもどんな宗教でも通用するから、ユニバーサルなものになっていく。それが信仰心を持っていない現代の人にも通用するのではないでしょうか。これは、イギリスのような複雑な宗教の国だったからできたというのはあるかもしれないですね。カトリックが主の国で、カトリックだけでやってしまったら、世界に伝播しなかったかもしれない。

 

栗原:1つの宗教にまとまっていなかったから、宗教を超えた宗教になって、慈悲とか隣人愛とか無償の力といった看護の核心の部分で動けたし、だからこそ広まったというのは興味深いです。

 

田中:ナイチンゲール自身は若い頃にいろいろな宗教を学んできたから、宗派にあまりこだわらないんですね。彼女は、統計でいろいろなことを明らかにしていけば、神様の法則のようなものがわかる、という、宗教がかっているところがありました。でも、統計に基づいて人を説得したり交渉できたりもする。合理主義的ですごく世俗的な感じがするところもあった人です。

イラスト:かげ
大量のナイチンゲールの資料本を持参してくださった田中ひかる教授(さぞ重かったことでしょう)。栗原さんの口から思わず「負けた〜」という声が!

4大関和(おおぜき・ちか、1858-1932)は、下野国(栃木県)の家老の娘。桜井女学校看護婦養成所で、ナイチンゲール看護を継承するアグネス・ヴェッチの訓導を受ける。看護学校同期生の鈴木雅が設立した派出看護婦会会長となり、キリスト教の理念のもと派出看護にあたる。後年、大関派出看護婦会を設立、後進の指導・教育、派出看護の質の向上に努めた。日本キリスト教婦人矯風会の先頭にたち、廃娼、禁酒、婦人参政権運動など婦人活動家としても活躍した。

 

5明治33(1900)年、東京府は看護婦の条件や資格試験の内容を定めた「看護婦規則」を公布した。この試験の対象は派出看護婦と開業医の下で働く看護婦のみで、官公私立病院の看護婦は免除されていた。

 

注6 鈴木雅(すずき・まさ、1857-1940)は、静岡県出身で、横浜のフェリス・セミナリーで英語を学ぶ。のち、桜井女学校看護婦養成所に入学。日本初の派出看護婦会をつくり、女性の自立の足掛かりにするとともに、慈善事業にも注力した。

 

7シドニー・ハーバート(1810-1861)は、政治家でナイチンゲールの思想に共鳴した同志といえる存在。クリミア戦争開戦時に戦時大臣だったハーバートは、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼。戦後もナイチンゲールとともに陸軍の衛生問題の改革の先頭に立つが、激務心労のため50歳でこの世を去る。

8金澤周作『チャリティの帝国―もうひとつのイギリス近現代史』(岩波新書、2021)

9プロテスタントの一派で、キリスト教正統派教義の三位一体説に反対し、神の単一性を主張する。キリストを宗教指導者とするが、その神性・超越性は否定している。教派縦断的であり、ほかの教会と二重に所属していても問題はない。イギリスでは合理主義やヒューマニズムの思想を発展させた。

 

注10Save the Childrenは、1919年にイギリスで設立された非政府組織 (NGO)。児童の権利に関する条約を理念とし、子どもの権利の保護を目標として活動している。

 

注11Oxfamは、貧困と不正を根絶するための持続的な支援・活動を行っている団体。1942年、イギリスでクエーカー教徒、社会活動家、オックスフォード大学の教育関係者が中心となって立ち上げた「オックスフォード飢餓救済委員会」から始まる。

注12 大関和の死から36年後に新聞の「たずね人」の欄に掲載された記事のこと。集団赤痢が発生した村に大関和の看護婦会からクリスチャンの看護婦が派遣された。著しい成果をあげたが、やがて自分も赤痢にかかり、亡くなってしまった。彼女の臨終に立ち会った医師が彼女の行為に感動し、キリスト教に入信して、その地に土地を献納して教会を建てた、というエピソードが記されている。

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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