「リビングウイル」は、どのようなときを想定しているのか
「リビングウイル」が必要になるのは、意識や判断力がなくなり意思表示することが難しくなったときです。判断能力がだんだん衰えてきて、現状維持であっても回復が期待できない認知症の方などがそれに当たります。
このように進行を遅くすることはできても、まったく元どおりにはならないときのことを想定して、自分で意思を伝えられなくなった際に家族や医療・介護者が困らないよう、自分がどうしたいかを書いておくわけですから、それは「生」と「死」の「あいだ」の出来事についての意思と言えます。
ドイツの哲学者、ハイデガーは『存在と時間』に「生というのは誕生と死の間の存在」で、人間とは「終わりに向かって在る存在(ザイン:Sein)」と書いています。この言葉を聞かれたある高齢者の方が「当たり前のことについて、どうしてそんなにもったいぶった言い方をするのか」とおっしゃいました。しかし哲学というのはそういうもので、当たり前のことをあれこれ考えるのが哲学なのです。
私たち「患者のウェルリビングを考える会」が目指すリビングウイルは「延命をどうするか」だけにとどまらず「どう生きるのか」について、家族や医療・福祉従事者と対話をしながら意思表示を作成するプロセスを重視しています。
作成された書面に対して「A4の紙1枚持って来られてもどうにもならない」と言う医療者もいますが、そうして紙面に向かって書くプロセスが大事なのです。リビングウィルは自身の希望のプロセスを過去から未来へと探っていくためにあります。
また、それは「もし私が意識を失い、回復の見込みがなくなったときはこうしてください」という一方的な宣言(モノローグ)ではなく、家族との対話(ダイアローグ)を通して作成するものなのです。「こういうふうに希望するけどいい? お願いね」と身近な人に伝えておくことが大切です。そのために、なぜそうしてほしいのかをきちんと説明しておかなければ、意思は伝わりません。
一方的でもなく、命令的でもなく、対話をしながら作成する。こうしたプロセスから私たちは「ファミリー・リビングウイル」というタイトルを付けています。ファミリーとは、血縁や法的に認められた家族だけではなく、友達でも内縁の方でも構いません。医療者や介護者なども含めて皆さんが生きていく上でつながっている人たちのことを指すのです。
「対話」とは非常に哲学的な言葉です。対話=ダイアローグ(ディアロゴス)、つまり言葉(ロゴス)を分ける(ディア)のですから、単なる話し合いでも議論でもディベートでもありません。また、ご飯を食べながらワイワイとおしゃべりをする、というものでもありません。
そこで行われることはお互いの差異を認め合うこと。したがって、相手の話をよく聞くことが求められます。自分との違いがわからなければ相手を理解することもできないし、互いの違いを認めることもでないのですから。対話を通して他者と関わることで相手を知り、自分自身を知るのです。
そうした「対話」によって自分が変わることも少なくありません。するとリビングウイルに書かれる思いや希望も変わるため、1年に1度は内容を見直します。自分の生き死にのことですから、自由に変えてもいい。
しかし「変わらないこと」もあります。その「変らないこと」について探ってほしいのです。これだけはやはり譲れないというところを、医療者にしっかり伝えたい。たくさんの希望を並べ立てるのではなく、お医者さんや看護師さん、介護士さんそして家族の話もよく聞いて、「でもやはり、ここだけは譲れないのです」というものを伝えることが大事だと思います。
「リビングウイル」を書くということ
まだ病気にもなったことのない人には、「リビングウイルを書け」と言われても、どのような場面を何を想定したらいいかわからないことでしょう。
そこで、まず一つ目に大事なことは、自分で決める(自己決定)ということ。もちろん「お任せ医療」も自己決定の一つです。しかし、決めたら後は文句を言ってはいけません。
作成会の参加者で、人工心臓や呼吸器を着ける状況になったとき、ご本人は日ごろから「そんな状況になったら、絶対に延命しない」と言っておられたので、家族は本人の希望どおりに人工心臓を用いないことを選択しました。しかしその後、幸いにも思いのほか元気になられて、その話を聞き、「寂しい思いがした」と言われました。人間というのはなかなか理想どおりにはならないのですが、それはそれでしかたのないことだと思います。
二つ目は、家族の精神的ストレスを軽減するために書く。家族は、延命するか・しないかという状況になったとき、どうしたらいいかわからないことがあります。「長男はこう言っていた」「長女はこう言っていた」と意見が分かれると、医療者も困ります。このようなとき、そこで本人が何か意思を示していれば、みんなが納得できるでしょう。
三つ目はプロセスを大事にして書く。作成の過程で自分自身を見つめるのです。「なぜ、私はこういう選択をするのだろう」と考えることに意識を注ぎます。自身の人生を振り返って「だから私はこういう決定をするのだ」と言えるように。
そして最後に、自分が自分であるためにはどういう選択をするのかを考えて書きます。ただ、そこで大事なことは、死は皆さんご自身だけのものではありません。それは家族や大切な人にとっても大きな意味を持ちます。一方的な宣言ではなく、しっかりと対話をして意思確認をしておくことが大切なのです。
「リビングウイル」を書くということは、自分の生と向き合うことです。どう死ぬかではなくどう死と向き合うか。すなわち、どう生きるかです。「メメント・モリ(死を忘れるな)」と言うように、時々は思い出してください。そして大切な人にあなたの思いを伝えておきましょう。もし大切な人がいなくても、医療者や自分をケアしてくれる人に伝えておきましょう。
「リビングウィル」を書くプロセスとは、自身の物語を綴りながら死へと向かっていくことではないでしょうか。終生期の意思決定とは「どのような死を望むか」だけでなく、その人の「人生の物語」が大きく関わってきます。私の場合、死生観や価値観の元になったのは大切な人の死をめぐる体験だと冒頭に書きました。
ふだん死についてあまり考えなくても構いませんが、みなさんも「今の生は死につながっている」ということを、時々思い出してください。
あなたは、だれに、何を遺したいですか?
(2015年12月8日、千葉大学普遍教育教養展開科目「生きるを考える」における藤本啓子氏の講義「リビングウィル〜生老病死と向き合うために」より。完全版は書籍『「生きる」を考える:自分の人生を、自分らしく』[長江弘子 編、小社刊]に収録)
連載のはじめに・バックナンバー
講義を振り返って
担当教授 長江 弘子(前・千葉大学大学院看護学研究科特任教授、
現・東京女子医科大学看護学部看護学研究科教授)
藤本さんがずっと考え続けていらしたように、「自分はどのように生きたいか」を表現するのは難しいことですね。
だからこそ、誰かと話をしながら気がついていったり、別の考えに出会ってその違いや共通することに気づいたり......。そんな自分探しをしながら「自分はどう生きたいか」を表現していくのでしょう。
そしてもう一つ、「生と死の間の“ウィル”を誰かに伝えること」の大切さがあります。ふと考えてみましょう。あなたのことを一番理解してくれる人は誰でしょう。あなたの気持ちや考えを、あなたの代わりに話すことができる人は誰でしょう。
それは、いつも一緒にいる夫や子どもたちでしょうか......。「きっと、話さなくてもわかってくれているはず」とあなたは思っていませんか? また、あなた自身も身近な人から「家族だったら、わかっているはず」と思われているかもしれません。
そう考えると、言葉では表せないこともあるかもしれません。また、伝えたいことは相手によって異なるのかもしれません。
“ウィル”とは見えない大事なものなのかもしれません。自分という人間が生きてきた道を理解してほしい人、自分の考えを伝えたい人、残したいものがある人。伝えたいこと、伝えたい相手、それを考えることが大事なんですね。
なぜなら、リビングウィルは宣言することではなく、理解し合うこと、わかり合うこと、そして価値の伝承であることが大切でえあると、藤本さんは教えてくれました。まさに、ファミリー・リングウィルは、大切な人ともに「生きる」を考え、語り合うことなのではないかと思います。
あなたもあなたの大切な人に、あなたから心を開いて話してみませんか? きっとその方もあなたと語り合いたいと願っているのではないでしょうか。
あなたから心をひらいて一歩近づいてみませんか? きっと心通うあたたかな時間をつくることができるのではないでしょうか。
そんな瞬間の積み重ねが、わかり合いをつくり、自分を伝えることにつながるのではないかと思います。
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