イントロダクション
このワークショップの目的は、看護管理における自分自身の〈問い〉を見つけ出して言葉にすること、そしてグループでの対話を通して他の人との理解の枠組みや視点の違いを明らかにし、言語化することです。そのためにここでは「現象学」の考え方を手がかりにしていきます。
社会学者のG・サーサスが「何かをするときに、そもそも、自分たちがどうやっているのかなどに関心がない。彼らはただそれをやることだけに関心がある」(1995)としているように、看護師である私たちにとって自分がどのように実践をしているかを自覚したり言語化したりするのは非常に難しいことです。
勤務中、看護師の皆さんは、患者さんに何らかの援助をすることに関心を向けており、自分がいかにそれを成し遂げているのかにはあまり注意を払っていないのではないでしょうか。そこで、自らの看護実践へ関心を向け返して探究するために「看護を語ること」が非常に重要となります。とくに自身の中で「引っかかり」を残しているような経験は、一見、その人の意識の内に与えられている心的なものであるように思われますが、そうではなく、自己に問いかけたり、他者に語り出されたりすることから、その引っかかりと結びついて成り立っている経験なのです。
たとえば、ある「事例」が分析や吟味の対象とされるときは、治療や援助という介入そのものが注目され、それにかかわった看護師の経験は切り離されてしまいます。しかし、そうした事例も自ら関わった患者さんとの「経験」として見ると、先にも述べたように、何らかの引っかかりを残したり、自身の看護が問われるような経験であったりするのです。「看護を語ること」が重要なのは、このような看護実践をも孕んだ患者との経験が、語りにおいて紐解かれる機会となるためです。
現象学ではこうした主観と客観、自己と他者などの二者択一をひとまず退けて、私たちと世界とのその都度の関係をそれが生み出されるがままに記述することで、常に何ものかに向かう私たちの関心やその経験が成り立つ構造を浮かび上がらせようとします。現象学者のモーリス・メルロ=ポンティが行った対話についての以下の言及は、このような態度と今回のワークショップの意図を結びつけるものです。
(対話においては)「他者と私とのあいだに共通の地盤が構成され、私の考えと他者の考えとがただ一つの同じ織物を織り上げるのだし、私の言葉も相手の言葉も討論の状態によって引き出されるのであって、それらの言葉は、われわれのどちらが創始者だというわけでもない共同作業のうちに組み込まれてゆくのである」(モーリス・メルロ=ポンティ著、竹内芳郎・小木貞孝訳『知覚の現象学1』みすず書房、p.219、1967)
「……相手の唱える異論が私から、自分が抱いていることさえ知らなかったような考えを引き出したりもするのであり……」(モーリス・メルロ=ポンティ著、竹内芳郎・小木貞孝訳『知覚の現象学2』みすず書房、p.219、1974)
これらを前提に、今回のワークショップでは参加者のお一人お一人が語る話題(経験)に対し皆さんの率直な発言を期待します。そこで生まれる対話によって、それぞれの視点を発見したり異なる視点を表現することを促したいと思います。こうした試みは、日常業務としてのカンファレンスや申し送り、相談や伝達などと同様の会話でありながら、同時にそれぞれの関心を自分たちの実践に向け返すことによって、発見的な会話として機能する可能性、すなわち「はっきり自覚できない実践の言語化」に貢献できるのではないかと考えています。
また、看護管理者として、こうしたアプローチがスタッフたちにどのような意義を持つかを考えると、「引っかかり」の経験を語ることは、それを度々想起することによって自己の実践(過去・現在・未来)の意味を探求する作業(自己の触発)につながり、他者との対話を通してそれらは常に更新されうる“生きた経験”となるのです。つまりそれは看護師たちを「過去」に押し留めず、現在や未来へ拓くこと、異なる視点から自己の看護実践の新たな意味を創造することを意味します。
今回のワークショップを通して、みなさんそれぞれがご自身の看護を探求するきっかけを見つけていただければ幸いです。
西村 ユミ
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