特集:ナイチンゲールの越境 ──[情報]

 「所作としてのナラティブ実践

尾藤 誠司

シーソーゲーム的な情報の受け渡しではなく、あくまでも「セッション」にしていきたいんです。

 

 

──すごく面白いですね。ですがそれを現場の視点に還元して、出来事そのものに一つひとつ医療安全的な意味付けをしていくのはとても難しそうです。

 

そうなんです。だから「私たちの病院でこのものごとが起こったのはどのような意味を持つのか」という思考を促す構造というのを、まさにこのプロジェクトの中で考えているのです。起きている出来事からいったん人を自由にすること。それが結局、人というものを説明できる一番の近道じゃないかと思います。プロジェクトの礎となっているものの一つはナラティブだと言ってもいいでしょう。私たちは、変容する自己やヘルスケアにおける関係性のあり方をモデル化し、新しい医療安全のアプローチや複雑な医療での意思決定などの場に適用して、たとえばクラシックなコンセプトとしての医療安全やインフォームド・コンセントから患者と医療者の両方を解放していこうと考えています。この2つの概念はナラティブの導入によって今とはかなり違ったものになっていくでしょうね。そこで注視されるべきは意思決定に至る対話そのものであり「医療者の私」と「患者のあなた」ではなくなるのです。

 

──しかし、現実の医療における患者・医療者の関係というものは、言ってみれば非常に契約的ですよね。

 

そこから崩していく必要がありますね。たしかに契約的関係性を崩すのは容易ではないし、また同様にカルチャーを崩すのも難しい。ルールを変えるためにはその必要性を論理的に証明する必要があるし、文化や習慣はわれわれの中に染み込んでいるものだからよりやっかいです。したがって一番現実的なのは、現場で実際に行われているやり取りに変革を起こすことです。たとえば医療面接時の言葉のやり取りの方法を一つひとつ変えていくとかね。私が取り組んでいる他の実証研究では「患者が医療者に対して〈私のことを説明してあげる〉というステップを必ず踏む」なんてことをやっています。

 

── ……すみません、もう一回お聞きしていいですか?

 

(笑現状のインフォームド・コンセントはというと、医療者側が医療のことについて患者側に説明をし、患者や家族がそれを理解したうえで同意や拒否をするという対面モデルですよね。これをもう少し「セッション」のようなものにしていきたい。そのためには「提供する」側と「答える」側が決まっている固いスタイルじゃなくって、どっちもラフに提供してどっちもアンサーしていくような関係性がいい。それもyes/noではなく質的なアンサーでね。質的なアンサーとは「私はあなたから診断や治療について教わったので、その御礼に私のことを聞いてよ」っていうことです。

 

──なるほど、本当の対等関係なのですね。聞く権利と同様に話す権利だってある……。

 

うーん、そうした権利論に基づくシーソーゲーム的な情報の受け渡しではなく、あくまでも「セッション」にしていきたいんです。つまり、バンドの即興演奏のように、ある人が鳴らした楽器の音に呼応して別の人の楽器がフレーズを奏でると、それに反応した相手や他の奏者がさらにリズムやメロディを合わせたり外したりして、皆が一つの楽曲をその場で創り上げていくようなイメージです。それがこれからのナラティブ的なコミュニケーションの肝だと思っています。文化よりもまずはこうした「所作」を変えていく必要があるのです。

 

たとえば、EBM(evidence based medicine)が医学に浸透していったのは、コンセプトから入らなかったことが良かったのだと思います。科学的根拠の臨床適用という考えをいちいち前置きせず、とくにかくまずPECOで疑問を定式化して、次に文献を検索し、それらを批判的吟味にかけて……というふうに決められた5つのステップを踏んでいけばよい。それ以外は何にもわかってなくてもいいから、ただ所作としてやれば身体が憶えるんですよ。思考より身体を優先させるんです。

 

なぜそうするかというと、脳というヤツは図々しいから自分の狭いスキームの中から出ようとしない。それに比べれば融通の利く身体に対して「とりあえずこうしてみようよ」というアクションを繰り返すことで、脳の支配とうまく拮抗しバランスをとってくれるようになります。

 

── 先生が今日おっしゃっていることはいずれも、ある種とてもケア的な発想のように思えます。そうした方向性はやはり地域包括ケアへの移行を見越したことなのでしょうか。

 

医療資源の問題よりも、情報の高度化・複雑化のほうが動きが早く広範囲に影響を及ぼしていると思います。意思決定支援の手段がどんどん情報化されれば、あと5年もするとセカンドオピニオンなんて「ワトソン」がやったほうが全然よくなるはずです。

 

── 初期診療での医学的な判断は機械がこなしてしまうようになると。

 

そう。医師がコアバリューとして積み上げてきた能力を機械が凌駕してしまうのは時間の問題です。そう考えたとき僕らに何が残っているのかというと、やっぱりケアリングとコミュニケーションなんですよ。情報系の人も言ってましたが、将来人工知能が人間にとって代わろうとする職業の中で、最もハードルが高いものは「保育園の先生」らしいです。ヘルスケアの中でもそれに近い要素だけが残っていくでしょう。どんなふうに言えばいいのかな……たとえば、手術を受けるかどうか迷っている患者さんを前にしたときに「じゃあ、一緒にバンジージャンプ飛んでみるか?」っていう世界ですね。きっと僕らはそこまで行く必要がある。

 

──「どれだけ本気でセッションできるのか」と……。それは危機感でしょうか?

 

危機感というよりは、変容への適応ですね。だから看護もそろそろ標準化のトラウマから解放されたほうがいいし、そのほうが21世紀的じゃないでしょうか。そうすることで自ずとステージがコミュニティへと移って行くはずです。そしてそこへ行ったらまた登場人物がいっぱい増えて、よりごちゃごちゃして楽しいと(笑)。

 

── (笑)つまり今のうちにそうした「所作」を身につけておいて、みんなで来るべきカオスに備えようよ、ってことでしょうか。

 

そうですね。

 

── なるほど。どうもありがとうございました。

 

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