特集:ナイチンゲールの越境 ──[情報]

「所作としてのナラティブ実践

尾藤 誠司

profile

ドミニク・チェン さんと孫大輔さんの対談「ウェルビーイングを考える」の中で触れられた、科学技術振興機構(JST)の社会技術研究開発センター(RISTEX)の研究開発領域「人と情報のエコシステム」では、医療分野からは「〈内省と対話によって変容し続ける自己〉に関するヘルスケアからの提案」というプロジェクトが立ち上げられています。

 

関連情報:

 

研究代表者の尾藤誠司さんに、その目的や背景についてお話を伺ってきました。

 

: : :

 

── 情報分野の方々と協働される中で、何か医療者とは違った視点など気づかれたことはありますか。

 

現在、プロジェクトメンバーの竹林洋一教授と当院の本田美和子医師が、人工知能を用いて認知症のケアメソッド「ユマニチュード」の効果を解明・体系化する研究を行っています。分野を横断して認知症をもつ患者さんの心を扱おうとしているわけですが、人工知能の視点から認知症を見るとそれは「欠落」ではなく一つの個性なんです。

 

──ニューロ・ダイバーシティのような捉え方ですね。

 

そうなんです。医療者にとって認知症は「正常な状態からの逸脱」ですが、情報分野から見ると「幸せに人生を終えていくための非常に卓越した人間のノウハウ」であったりするのです。人工知能に取り組む人たちは皆そのことにすごくワクワクしていますね。「おお、なんだかすごいことが起きている」と、ある意味で彼らのほうが認知症のありようを無垢に見る目を持っていると思います。ただ、医者も看護師も「医療のメガネ」でしか物事を見られないのは仕方のないことです。私たちはどうしても認知症の人たちを「なんとかしてあげたい」というところからしか出発できないわけですから。

 

ともかく、彼らはいま一様に「心」へと向かっています。不安や共感に対してどのように情報がアプローチできるのか、みんな考えているんですよ。その意味でヘルスケアや医療は彼らにとって魅力的な現場です。いろんな感情が飛び交っていますからね。

 

── 感情ですか。

 

はい。市場ではお金が飛び交うけれど、病院の中で飛び交っているのは感情や情動です。「かわいそう」とか「なんとかしてあげなきゃ」とかね。で、それらはお金ではわりきれないからこそ、おかしなことがしばしば起こってしまうのです。


情動が飛び交う現場というのは

「無理解の巣窟」なんですよ。

 

 

── おかしなこと?

 

お金だったら誰にも等しく外在化された価値に翻訳されるからおかしなことにならないけど、情動が飛び交う現場というのは「無理解の巣窟」なんですよ。だから医療現場は情報系の人々にはチャレンジの場なんですね。きっと彼らは「見えないもの」を見たいのでしょう……人工知能は従来計算できなかったものごとを乗り越えようとしているわけですから。それに比べると、僕らのようなヘルスケアの住人は「患者さんが幸せになったらいいな」とか「家族の介護の負担が少なくなったらいいのに」という比較的狭いゴールを設定しがちです。いや、もちろんそれは僕らにとっては最も重要なことなんだけど。

 

──医療の場合、科学的視点に基づいた実証的アプローチでものごとを探究をしながら、情動がカオスのように飛び交う現場で、目的や役割を遂行しなければならないわけですね。

 

そうですね。医学書院さんから出された『中動態の世界』(國分功一郎著)がとても面白くて、そこで言われていることはつまり「私」も「あなた」もなく、中心にあるのはこの「場」とそこでの出来事なんです。これはいわゆる私が理解している「ナラティブ」とすごくよく似ています。私が「ナラティブ」に触れ、勉強したことは、「人が問題なのではなく、問題が問題なのだ」というもののとらえ方です。人と人との関係性を「私があなたにXXをする」「私はあの人から○○された」というものから、そこで繰り広げられている物語そのものを見つめ、その登場人物としてそれぞれの歴史を持った「わたし」と「あなた」がやり取りをしている、ととらえるようなものの見方です。

 

しかし看護の世界でもそうですが、実際にはいかに個人の中に入っていくかがナラティブであるように言われます。そうすると逆に物事は「これは誰のせいだ」とか「だれに責任があるんだ」というような因果モデルにどんどん縛られていってしまう。もうそこから人と人との関係性は解放されるべきなんです。たとえば患者安全をそのような視点で脱構築しながら説明するとすごく面白いですよね。個人を責めないわけだから。なぜ今のインシデントレポートがダメなのかというと、結局そこに問題があるんですよ。

 

──レポートを書いた個人を責めない、というのは最初からルールだったはずなんですけど……。

 

因果でインシデントを解き明かそうという視点そのものが、事象の原因や責任を個人に帰着させる仕組みになっているんだと思います。インシデントとは「起こったものごと」であって、そこに登場している人物はあくまでインシデントを構成するパーツの一つなんです。だからその「起こったものごと」をナラティブの視点で見ていけば、出来事の内容がすごくリッチになっていくはずです。たとえば「うまくいっていないことの意味は何なのだろう?」というふうに考える、ということかと思います。

 

<  ●   >

 

>> 対談:ドミニク・チェン × 孫 大輔「ウェルビーイングを考える」

 

びとう・せいじ

独立行政法人国立病院機構東京医療センター臨床研修科医長・臨床疫学研究室長。1990年、岐阜大学医学部卒業後、国立長崎中央病院、国立東京第二病院(現・東京医療センター)、国立佐渡療養所に勤務。1995〜1997年にUCLAに留学、臨床疫学を学びながら医療と社会とのかかわりについての研究活動を行う。現在は総合内科医として東京医療センターでの実地診療とともに、研修医の教育、医師・看護師などの臨床研究支援のほか、国立病院機構における診療の質の向上をめざす事業などにかかわっている。

教養と看護 編集部のページ日本看護協会出版会

Copyright (C) Japanese Nursing Association Publishing Company all right reserved.