映画『しがらきから吹いてくる風』(西山正啓 監督・株式会社シグロ 配給/1991)のイメージカット。(提供:シグロ)

 

前回は、滋賀県近江八幡市にあるボーダレス・アートミュージアムNO-MAの取り組みを通じて、障害のある人たちが自分の地域でよりよく生活していくための支援実践や制度づくりと地続きにある「文化芸術の推進」について考えて来た。また、この「社会福祉法人発の美術館運営」という、一聴すれば「なんでそんなことをわざわざするの?」と問われそうな、通常の「支援」の枠を超えた実践には、滋賀の障害福祉の先達が刻んできた造形活動の歴史の存在や、障害のある人たちがつくり出す荒唐無稽な造形物を「アール・ブリュット(生の芸術)」という西洋発の美術概念を通じて語り直し、日本の障害福祉を国内外のアートシーンと接続してきた背景など、「縦(歴史)」にも「横(国境や分野)」にも展開していく可能性が秘められているのだった。

 

しかし、読者の皆さんはこう思われるかもしれない。「そういった活動って、結局のところ、“好き”なスタッフがたまたまいて、その人がある程度力を持っているから始められるのではないの?」と。あるいは「ケアを必要としている重い障害のある人たちを目の前にすれば、文化的な活動にまでなかなか手が回らないし、もっと他にやるべきことがあるんじゃないの?」と。またあるいは「そういった活動は仮にできたとしても、人員や金銭面などが恵まれている団体でないと継続はできないんじゃないの?」と。

 

確かに。こうやって書きながら僕自身が自分に「いやー、そうなんだよね……」とツッコミを入れたくなるくらい、その疑問は一定当たっている。要約すれば「マンパワー」があり「必要性の確信」を得られて周囲を巻き込みながら、かつ「継続するための体制整備」を行えること。これは決して一朝一夕で実現するものではないし、また仮に誰かがきっかけになって始めた活動でも、必ず仲間がいないと続かない。

 

しかし、と言うか、だからこそこの連載で伝えたいのは「みんながみんな、こうなればいいじゃん! 頑張って!」という話ではなく、支援の現場から支援を超えそうな「コトを起こしてゆく」ときの、そのぐちゃぐちゃしたプロセス ──七転八倒の連続、その延長線上で現在までを歩んでいるということ── の共有、もっと言えば共感を生み出すことが大切だし、その共感を通じて広くケアに携わる方々が「自分(や自分たちチーム)に合わせた“超支援的コト”」を立ち上げていくための、燃料にすることだと思うのだ。

 

ということで改めて今回は、NO-MAの運営責任者であり、社会福祉法人グローの理事長である北岡賢剛という人物の歩みを取り上げる。まずは略歴を以下に。

北岡 賢剛 きたおか・けんごう

 

1958年 福岡県大牟田市生まれ。

1984年 筑波大大学院障害児教育研究科修了。大学時代に糸賀一雄思想と出会う。

1985年 滋賀県甲賀市の知的障害者施設「信楽青年寮」に入職。

1990年 製作に携わった映画『しがらきから吹いてくる風』(西山正啓 監督)上映開始。

1993年 障害者の地域生活実現を目指した全国ネットワーク「平成桃太郎の会」結成。

1994年 全国に先駆け障害児者を対象とする「24時間対応型在宅サービス」実施。

1997年 障害福祉の全国フォーラムである「アメニティフォーラム」の第一回目を実施。

2000年 信楽青年寮 退職。

2001年 社会福祉法人「オープンスペースれがーと」を設立、理事長に就任。

              滋賀県社会福祉事業団 企画事業部部長に就任。

2004年 「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」設立

2007年 滋賀県社会福祉事業団 理事長に就任。

2008年 スイスとの交流事業『アール・ブリュット/交差する魂』展をNO-MAをはじめ、北海道、東京で開催。同時期にスイス・ローザンヌにて「JAPON」展が「アール・ブリュット コレクション」にて開催され、これらの運営事務局を担う。

2010年 フランス・パリの「アル・サンピエール」美術館での『アール・ブリュット ジャポネ』展の日本側事務長。

2014年 社会福祉法人滋賀県社会福祉事業団とオープンスペースれがーとが合併し、社会福祉法人グロー(GLOW)発足。

撮影:大西暢夫

 

 

ここからは、北岡への個別インタビューと、僕がグローとともに企画制作しているKBS京都ラジオ「Glow 生きることが光になる」での北岡の発言、またグローの社内報『Go!コミュニける』での北岡の連載コラム「いろいろあってもあるきつづける」、過去の著作『僕らは語りあった──障害福祉の未来を』(ぶどう社)などを参照にしながら、北岡の「支援観の変遷」を綴っていきたい。

 

糸賀一雄との出会い

 

埼玉にある大学の福祉系学部に在籍していた北岡の卒業論文タイトルは「糸賀一雄の福祉の思想と実践について」である。そのテーマを選んだ最初のきっかけは、かつてから好きだったジャン=ジャック・ルソーの教育哲学書『エミール』の訳者、今野一雄の読書会だ。エミール研究者であった永杉喜輔(当時群馬大学名誉教授)を招いて、今野が翻訳した書籍の自主ゼミを主宰した北岡が永杉から聞かされたのは、自身の友人であった糸賀一雄という初めて聞く名の人物の物語だった。

 

秀才で努力家、京都帝国大学文学部哲学科を出て滋賀県庁に入職、エリートへの道を歩んで来たが、そのすべてを捨てて滋賀の地から戦災孤児や障害児のための教育や福祉に人生を捧げた人物。北岡はかつての友人との思い出を止めどなく話し続ける永杉の自宅に上がり込み、糸賀の手紙や彼が初代園長を務めた近江学園設立趣意書の案などを見て、これまで味わったことのない興奮を覚えたと言う。後日で知ったことになるが、糸賀と永杉は近江学園の設立趣意書をともに書き上げた間柄だったそうだ。

 

北岡の大学在学時に障害福祉分野では大きな出来事が二つあった。一つは1979年の「養護学校義務化元年」。もう一つは1981年の「国際障害者年」だ。障害児心理学や施設実習を重ねてきた北岡は、その時期、学友達と「ノーマライゼーション」や「インテグレーション」の議論を交わしながら、自分が進むべき真の障害福祉の道を模索していた。そこでの糸賀一雄の「この子らを世の光に」に代表される、福祉観・支援観は、今後の北岡の方向性を決定づけることとなった。

 

北岡は当時、アルバイトで稼いだお金で、全国各地の障害者入所施設を100カ所以上訪ね歩くという、とてつもない行動に出ている。

 

全国施設名簿で見て、適当に選んで、電話でアポとって、自分は学生なんだけど見学に行きたいって。例えば夏休みに家に帰る時、僕は福岡ですから、道中降りて広島に寄ったり、山口に寄ったりして。そうやって100カ所くらい施設を見たんですかね。(中略) 異常ですよね。まるで修行僧のようにですよ(笑)。なんか、とにかく見なきゃいけないんだと思ったんです、ほとんど強迫的に。そして卒業論文は糸賀一雄さんのことを書こうと思って、滋賀県は全部の施設を見て回ろうと。自分はそんなに勉強のできる学生でもなかったんで。行動派というか、知識を詰め込んでまとめるよりも、一カ所一カ所、あの施設ではこんなことをやっていたとか、ルポのような、そういうことしか自分はできないと思って。だから現場に一番詳しい学生を目指す。単純にそういうことだったと思う。

(『僕らは語りあった──障害福祉の未来を』ぶどう社、2004、p.14)

 

とりわけ何度も訪ねた滋賀県で、ある時、関係者に聞かせてもらった糸賀の最後の講演「愛と共感の教育」の録音テープが、北岡に滋賀で働くことを決断させた。そのなかでも甲賀市にある知的障害者入所施設「信楽青年寮」は北岡にとって他の施設とは比較にならないほど魅力的だったようだ。その理由は、タヌキの焼物など「信楽焼き」で全国的に知られる窯業の里ならではの地域性も踏まえた、先駆的な地域就労の実践が根づいていたから。北岡はこのように語っている。

 

地域に開かれているというのは、お好み焼きを地域のおばちゃんが来て焼いてくれるとか、盆踊りを地域の人と踊るとか、空き缶を地域の人と集めて回るとか、あるじゃないですか、そういう類の話が。それを判で押したように答えるんです。(中略) だから、みんな同じ施設に見えてくるというか。こんなことくりかえしていて、どうなんだろうとは思ったけど。(中略)そういう中で「信楽青年寮」というのは、僕にはもう圧倒的に格好よかった。当時、一五〇名を超える知的障害のある人たちが町の事業所で働いていて、つまり地域就労していて、民間下宿という、今のグループホームが、当時で四カ所あったり、障害の重そうな人が陶器屋で働いていたりするのは、すごい新鮮だった。

(『僕らは語りあった──障害福祉の未来を』ぶどう社、2004、p.15)

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>> 連載のはじめに・バックナンバー

第三回

地域福祉の実現に並走する美術館運営とい「支援その2

― ズラして笑う。開いて出会う。北岡賢剛の支援観から見えること ―

  • >> 今月の視点 〜 編集部より

    今回は「ずらす」というキーワードが印象的です。既存の支援観にあるモラルや道徳によって蓋をされた支援者側の本音(支援者自身の当事者性)を正直にあぶり出すことで、支援される側の当事者性との垣根がとても曖昧になっていきます。人は誰でも皆それぞれに「つらさ」「つまんなさ」「しんどさ」を抱えているものであり、そのどれもが個人的でしかあり得ません。こうした認識をもとに、支援する側される側という立場の枠組みを壊してしまおうというのが北岡さんの姿勢のようです。

     

    ──(中略)じゃ、つまらなさを感じているみんなでつながっていこう。施設現場のつまらなさを笑う。施設の限界を笑う。そういうところから徐々に壊していって、新しい何かがつくれないか。それは自分の中身であったり、施設とか福祉の世界であったり。そういうつながりというか、そういう場をつくっていけば、せめて一時の癒しになったり、次の展開があるのかなと思ったんですね。(本文より)

     

    一方で、たとえば病院のようにシステマティックな組織で役割分担が厳格な現場では、こうした本来的な人間同士のフラットさをどう浮き立たせ意識化していけるのでしょうか。サービス業としての側面が強化されることで「顧客」の権利意識が高まるにつれ、むしろ立場の分断はますます拡大しているようにも見えます。そのような場所で「既存の価値観に違和をもたらす」ことはどのようにすれば可能なのでしょうか。

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