第1回 学びの主体形成
「書く」ということはとても身近な行為です。たとえば私たちの看護記録・サマリーや、会社員が日々残している業務記録、あるいは友人や家族に向けた手紙や自分だけが読む日記など、さまざまな水準の「書くこと」がありますが、ここでは大学教育における「書くこと」「学ぶこと」「私という主体形成」という点に軸を置いて、パーソナル・ライティングという実践を紹介していきましょう。
なぜアカデミック・ライティングではなく、
パーソナル・ライティングなのか
大学の初年次教育として一般的に行われている「アカデミック・ライティング」は、授業のレポートや卒業論文など専門的な内容を書くために必要な“文章作成技法”を教えることに重点が置かれたトレーニングです。大学生の文章力低下の原因をテクニカルな問題として捉え、不足しているものを付け足していくという方法によって、書く力をつけていきます。
これとはまったく別の視点を提示しようというのが「パーソナル・ライティング」です。その動きは1970年代に始まり、1990年には米国の大学で本格的に広がりました。現在では大学の種別を問わず、英国、カナダ、オーストラリアなどの大学でも実施されています。1970年代にPeter Elbow教授らによって、学生、広くは人間にとって「書く」ということはどういう行為でどのような意味のあることなのか、といった根源的な問と向き合うことで生まれました(谷, 2015)。そこでは学生が自由に自分の感情や考えを表出し「気づき」を生むことが、すなわち「書くこと」であるとされています(Elbow, 1973)。
谷さんが取り組む独自のパーソナル・ライティングは、米国の代表的なパーソナル・ライティングと同様に学生の発想を大切に自由に記述させつつも、サブタイトルの “自己省察としての文章表現”からも推察されるように、学生の「独自なものの観方」あるいは「(代替え不可能な)固有の自己を発見する」といった「省察的な思考」に、より重きを置いています。
というのも、谷さんの問題意識は、学生の「書けない」あるいは「考えようとしない」原因は、「<自己>と<世界>にまたがる認識の起点としての〈私〉がうまく機能していないからだ」と考えるところから出発しているからです(谷,2015:p116)。つまり、テクニック以前の、学びの基盤としての〈私〉の確かさあるいはその不確かさに焦点が当てられているところが、谷さんの実践と研究の面白さでありオリジナルなところなのです。
この視点はとてもユニークです。“大学で学ぶ”という言葉で通常イメージされるのは、小・中・高と学校教育で培ってきた基礎学力をベースに、新たな専門知識を積み上げることではないでしょうか。普通はそのように“土台としてすでにある”とされているところにあえて疑問を投げかけることはしません。しかしパーソナル・ライティングではまさにそこへ踏み込んでいきます。学ぶことには「積み上げる」だけではなく、常に土台を「掘り下げる」必要性があり、これが結果的に学びの器を押し広げていくのだ、という見通しが谷さんにはあるようです。
◉パーソナル・ライティングの教育理念
高等教育における〈私〉と専門・学術的な世界の著しい乖離「書く=考える」ことが、外在的で形式的なこなされるべき業務になりがち。「書く=考える」ことが、内発的な学びと表現への模索や思考に「結びつきにくい」状況がある。ハウツー的な技術の伝授でも、専門知識の注入でもなく「書く=考える=表現する」ことが、学生の内発的な学びや動機のきっかけになるように!谷美奈:大学における「パーソナル・ライティング」導入の意義──「文章表現者としての主体形成」をいかに促すか──、2014年関西地区FD連絡協議会主催イベント 思考し表現する学生を育てるⅥ、関西地区FD連絡協議会・京都大学高等教育研究開発推進センター主催、資料より
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