N.Ohkubo
家髙先生、ありがとうございました。
実はここには、多くの学問領域を横断する、とても奥深い問いが潜んでいるんですね。SとOを区別すること自体が、かなり危うく思えてきます。
実際に、新生児は言語を話すことができないので、SとOの記録を一緒にしています。特にSはこちらから感じ取るしかないのです。「苦悶様の表情」とか「眉間にしわをよせている」「ペダルをこいでいる」「口をもぐもぐ」「そばを通るとモロー反射(+)」などの表情やささいなしぐさについて、何らかのパースペクティブ性を持たないと見えてこないものもあります。
心臓が止まってしまう前に、息を止めてしまう前に、もっと言えば医師の診断がつく前に、あらゆるデータと自身の感覚に基づいて、どういうことが起こり得るのかという推測のもと、この目の前で繰り広げられていることにはどのような意味があるのか、看護の視点から吟味する。そうしたことが実践では常に求められて続けているのです。
このSとOを貫くパースペクティブ性をもつには、臨床実践の積み重ねと理論や看護診断が手掛かりになります。
一方には、実践を積むことでその人自身の中に、内側から形づくられるパーソナルな知があります。もう一方には、外側からものごとに網をかけて考える、理論や看護診断の知があります。
ご存知のように、さまざまな看護理論や看護診断が開発されてきました。ベナーはドレイファス(現象学)、キングはベルタランフィ(一般システム理論)、ワトソンはC. ロジャース(人間中心のカウンセリング理論)など、時代の思潮の影響を受けていないものはないと言っても過言ではないでしょう。つまり、看護学は他の学問と同様、時代とともに変化しつつある学問分野であること。このあたりが見えてくると、医学のみに追随している場合ではないことに気づき、はっとさせられるのではないでしょうか。
同時に、看護の独自性を学問として明らかにしたくなるでしょう。そすることで、看護過程よりももっと優れた道具を開発できるかもしれません。
では、人は実践で看護をどのようにわかっていくようになるのでしょうか。実はこのこともまだ解明されていません。ショーンの『反省的実践』とか、ポラニーの『暗黙知の次元』とか、レイヴの『状況に埋め込まれた学習』などが参考になりますが、いずれも看護の知を詳らかにすることには決して成功してはいません。
もっともっと、他の学問領域にも視野を広げることで、いろいろな方向から看護とは何かを問い直したり、変えてみたくなることでしょう。その一つとして現象学や、最近では社会構成主義という考え方があります。
隅に追いやられてきた人たちの声を聞いて現実を共に築いていく、そういったナラティヴ転回が学問領域横断的に起きています。もうそろそろ『…してあげる』『…させる』、そういう看護介入に代表される『専門家支配』から、私たちは抜け出さなくてはなりません(あの時、わからないと言っていた学生の視点に立てていたら…、という自戒も込めてですが)。
あるいは、ケアを受ける人の視点に一度本気で立ってみてはどうでしょうか。そうすることで、今まで見えてこなかった世界が、まざまざと開けてくるように思います。するとますます、看護を実践することや看護学を探究していくことに、魅了されずにはいられなくなるでしょう。
● 参考文献(家髙)
大久保功子(おおくぼ・のりこ)
東京医科歯科大学大学院 保健衛生学研究科 リプロダクティブヘルス看護学分野 教授。聖路加看護大学看護学部卒業後、聖路加国際病院で助産師として勤務。東京医科歯科大学大学院保健衛生研究科修了。博士(看護学)。監訳書に『人間科学のためのナラティブ研究法』(C.K.リースマン著、クオリティケア 2014)、訳書に『解釈学的現象学による看護研究:インタビューを用いた実践ガイド』(日本看護協会出版会 2005)がある。
家髙 洋(いえたか・ひろし)
東北医科薬科大学 教養教育センター 准教授。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。著書に『メルロ=ポンティの空間論』(大阪大学出版会 2013年)、共著書に『ドキュメント臨床哲学』(大阪大学出版会 2010年)、『現象学的看護研究―理論と分析の実際』(医学書院 2014年)、共訳書に『講義・身体の現象学―身体という自己』(B.ヴァルデンフェルス著、知泉書館 2004年)、『フロイト全集 第18巻』(岩波書店 2007年)などがある。※写真:阪大時代に学んだジャワ島の楽器、ガムランを演奏中。
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