対 談

ケアの現場から立ち上げる現象学 西村ユミ ✕ 村上靖彦 科研費「医療現象学の新たな構築」第1回研究会より

ディスカッション 前編   page 1

ディスカッション 前編

 

 

「問い」は現場での対話から立ち上がる

 

榊原 口火を切っていただくのは西村さんでしょうか。よろしくお願いします。

 

西村 村上さんはちょっと変わった言葉を使いますね。「ローカルでオルタナティブなプラットフォーム」とか(『仙人と妄想デートする』p.21)。たとえばそのプラットフォームという言葉からは、固定された何かをつくるような印象を多くの人が持つと思うのです。同じ意味のことを「足場」とか「○○さんのやり方」といった素朴な表現でも書かれていて、そう聞くと私が探求しようとしている事柄ととても似ているように思いました。

 

7月に行われた日本学術会議の公開シンポジウムで、社会学者の上野千鶴子さんに「なぜ西村さんは定義をつくらないのですか? そこから始めないと学問などできないのでは?」と尋ねられたので「私の場合、研究しようと思っている事がらに最初から定義を与えてしまったら研究する意味がなくなるため、定義も概念もつくらないのです」とお答えしました。

 

私には、医療の現場にあるさまざまな医学的知識や制度を超える、あるいは一旦それらを棚上げして実際の経験に立ち返りたいという強い意思があるようです。そのために、新しい言葉をつくるのを遅らせている、控えながら研究しようと思っています。村上さんとはそこの違いが際立っていながらも、行っていること自体はすごく似ているなと感じています。

 

村上 僕の場合、見えてくる事象をそのつど新しく発見していくので、まだ言葉がない状態から始まり、言葉を充てていくことになります。もちろんもっと平易な言葉で表現できればいいのですが、難解な哲学用語とは違う、むしろ日常語の中で自分に一番しっくりくるものを選ぼうと努力しています。この「プラットフォーム」という言葉はずいぶん苦労してつくったのですが、西村さんのご指摘どおり、看護師さんの実践が成り立っている「足場」は自分自身の実践に従って痕跡として自らつくり出されていくため、そのつど変化していきます。僕のデータからは、それはある種の持続性があるものとして見えてきています。

 

西村 もう一つ質問ですが、村上さんはあえてリサーチクエスチョンをつくらず、白紙の状態から研究を始めていくそうですね。私も大ざっぱにしかつくらないので、事象のほうが見せてくれる何かが手掛がかりを与えてくれるのを待ちます。今年も2週間あまり病院の近くに寝泊まりして調査をしますが、初めから見えているものがあるのではなく、調査の中で「ここだ」と思うものを現場に行って見つけて手がかりにするため、村上さんのアプローチと近いのかもしれません。

 

村上 僕は医療職ではないので漠然とした興味はあってもどういうテーマで切り込んだらいいのかはあらかじめ見えません。なのでフィールドに入る時点ではリサーチクエスチョンを立てようがなかったのです。このことは研究の性格上、必然的な形になっています。そもそもフィールドの選び方からしてある意味いい加減なのです。自分から積極的に選んでいるというより、そのつどの成り行きに導かれている。対象者となる方からお誘いをいただく場合もあれば、ある状況の中に僕が吸い込まれるように入って行ってしまうこともあります。

 

守田 ある現場に入った段階では、リサーチクエスチョンがないというのはわかる気がしたので、フィールドを選ぶ時点で何らかの関心や疑問がおありだったのだろうと思っていたのですが、そうではないのですね。誘われる形でフィールドに入れるという状況なのだと。でもきっとご自身の関心とフィールドとに惹き合う何かがあって、そこに行かれるわけですね?

 

村上 そうですね。互いに全く関係のないところから始まった研究は自閉症をテーマにした時(『自閉症の現象学』勁草書房、2008年)だけです。学生時代の友達から「遊びに来い」と言われたのがきっかけでした。一方、看護の分野の方々は僕の興味や関心をある程度ご存知の上でお誘い下さいます。これは看護学の研究者と大きく違うところで、僕自身がもつ知識や興味の範囲はすごく狭く、それを超え出るためにはそういうご縁が本当に大切なのです。たとえば在宅医療のことも5年前には全く知らなかったのに、たまたま見学にお誘いいただく機会をもらえたことがきっかけになりました。

 

榊原 西村さんはそのあたりについてどうお考えですか?

 

西村 まず動機にもなっている自身の経験や先行研究を吟味して、リサーチクエスチョンをはっきりさせてから研究に取り組む、というスタイルで研究を進めていますね。村上さんはそういう意味でのリサーチクエスチョンをつくらないとおっしゃっていて、これまでのお仕事を拝見する限りでは、村上さんはご自身の思想を拡張していったり、組み立てていくといった方向性を持たれているように見えます。

 

それに内容としては「死」や「欲望」といったキーワードに関わる事象にコミットされているように思えます。看護学の研究スタイルでの「リサーチクエスチョン」とは異なる問いを自身で持たれていて、それと現場のさまざまな現象との間を往復されているようにも聞こえてくるのです。

 

村上 全くおっしゃるとおりだと思います。だって僕たち研究者も独りで成り立っているわけではないから、問い自体も現場の方たちの間でできる、つくるものだと思うのです。リサーチクエスチョンも最初はわかっていないだけで、だんだんと立ち上がってくる。最終的に本の形になるような明確なものは後から出てくるので、最初から立てたくはないのです。

 

 

個別と普遍をめぐって

 

榊原 じゃあ今度は村上さんから西村さんへ質問していただきましょうか。

 

村上 今日は久しぶりに一緒に登壇してお互いの共通点が見えました。まずご本の中で取り上げられた「引っかかり」という言葉の意味づけも僕にとってすごく大事なところですし、また僕らの研究というのは「個別事例の分析は普遍的な可能性を獲得しているか」という点をいつも責められ続けているわけですが、それを説明する一つの結論を「側面的普遍」(『看護実践の語り』p.208)という形で出していただきました。

 

これにはほぼ納得したんですが、僕自身としてはこんなふうに考えています。たとえば異分野の僕が関わることで看護師さんの経験が触発されるわけですよね。人間としての可能性の中に、僕も潜在的に持っている可能性として看護実践みたいなものも含まれていて、その限りにおいて触発が可能であると。そういう可能性を僕らはみんな普遍的に共有しているのだから、逆に個別であることが可能性の一つひとつを示してくれると思うのです。哲学に詳しい方ですとこれを「ライプニッツ的だ」と思われるでしょう。

 

もう一つこの問題で重要だなと思うのは、個別事例の分析でなければ触発されないこと。たとえば1万例のデータを集めて統計的に有用性を示せば「ああそうだよね」と思えることはあっても「突き刺さる」ことがないのです。この「突き刺さり」は同意ばかりではなく反発の意味でもあり、たとえば僕が発表したデータに対して「そんな看護はあり得ない」という電話がかかってきたり、メールで2ページくらいの添付文書が送られてきたりするんです。これはすごく面白いなと思います。

 

榊原 それはつまり村上さんの「問い」への挑戦状ですよね。

 

村上 そう。僕はラッキーだと思うのです。つまりそういうリアクションがあるのは僕の分析がある意味でうまくいっているからで、さらにその方からインタビューとればいいのです。

 

榊原 私もそう思います。

『仙人と妄想デートする:看護の現象学と自由の哲学』(村上靖彦著/人文書院)

『看護実践の語り:言葉にならない営みを言葉にする』(西村ユミ著/新曜社)

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