連 載
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みたものを言葉にしてみる
会場に入り、ナビゲーターに案内されるままに、会場を進み、指定された作品の前で足を止める。
ひとつ目の作品。巨大なベルトコンベアのような装置だ。
「黒い袋が、ベルトコンベアで運ばれ、滑り台のような傾斜をゆっくりとのぼっていっています」
参加者の一人が、口をひらく。すると、
「一番上までいくと、ぼとっと右側に落ちちゃう」
「落ちた下には、布のようなものが広がっていて」
「けっこう分厚い、幕のような布」
「袋がそこを転がっていっている」
「下まで落ちると、またベルトコンベアの入り口にいくようになっていて、また滑り台をのぼりはじめる」
そんなことが、口々に話された。
「いまので、イメージわきますか?」とナビゲーターの木下さん。視覚障害のある参加者に声をかけながら、みずから「その黒い袋は、何個くらいありますか?」と聞く。
「4つ」
「あ、4つだけなんですね。もっと大群を成しているのかと思った」
「大きさは?」とほかの参加者。
「枕くらい」
「けっこう大きい」
「ソーセージみたいなかたち」
私は、意外さを感じながら聞いていた。というのも、ぱっとみた瞬間、私にはその黒い袋が、巨大なカブトムシのように思えていたからだ。カブトムシがゆっくりベルトコンベアで運ばれていき、高いところから落とされる。それが繰り返される。終わりのない処刑台のような印象を受けていた。
しかし、「ソーセージ」となると、また違った印象を受ける。作品が喚起する感情・印象が、やるせなさや哀しみのようなものから、おかしみやおろかしさのようなものに変わるように思った。
ここで、ある参加者が口をひらいた。「あと、右側に、楽器があります。みたこともないような楽器。ギターがあるんだけど、逆さまに突き刺さっている」
他の人もあとに続く。「手押し車みたいな。押すと、音がなるようになっているんじゃないかな」
そこから、音の話になった。ベルトコンベアが発する音。
「白鳥がいっぱい泣いているような音だよね」
「聞いていられる?」
「私はちょっと苦手かな」
「苦しそうな感じがする」
ここで、ナビゲーターが「タイトル、予想つく人います?」と問いかけた(ツアーの最初に、作品名や作家などの情報は適切なタイミングでナビゲーターから提示するので、すぐに参照しないようにと案内があった)。
「不協和音の和」「世界」「ソーセージ再生利用機械」などがあがった。そう言われると、また違った印象をもって作品がみえてくるからおもしろい。
最後に、キャプションに書かれた情報が読み上げられた。西原尚「ブリンブリン」(2015)。わかったような、わからないような気持ちになって、次の作品にむかった。
(片山真理さんの作品)
ひとりだなって感じるときは?
2つ目の作品は、壁にかけられた作品だった。
「写真ぽいんだけど、写真ぽくないところもあって。絵かな」「ぱっと見、写真にみえてた。光の感じが写真ぽい」と参加者たち。「そうなんだ。ほかの方、どうですか?」とナビゲーター。
「お皿がある。液体が入っているんだけど、お皿の柄の花から溶けでたみたいな感じ」
「お皿には、ピンクの花が10個くらいかかれている」
「お皿だけで、人はいない」
ある参加者が問いかけた。
「ここには、誰がいる/いたと思います?」
「ひとりの感じがする」
「どのあたりが?」
「うーん」
「なんとなく。人の気配がしない」
「ひとりでご飯をたべるときの光景に似ている」という人もいた。
また、ほかの人が問いかけた「ひとりだなって感じるときはある?」「大勢のなかでひとりのときかな」別の1人が答えた。
作品のタイトルは、『そこの階段をのぼると、ああ私は独りなんだなって思う』(2015)。松川朋奈の絵画作品だった。
鑑賞のなかで、自分が今、何をみて、何を感じているかを話していく。自分の言葉をとおし、自分が今、何をみて、何を感じているのかを改めて知る。それに対しかえってくる言葉、反応により、また気づくことがある。そうして自分の考えに気づき、他者の考えに気づく。そこから新たな発見を得る。そんなふうに時間はどんどん過ぎていった。
この日、私が参加したグループは、全部で4つの作品をみた。作品の前に立ち、言葉を交わしながら、じっくりみていく。1作品あたり、20分〜30分だろうか。ひとりで美術館を訪れても、ひとつの作品をこれだけ時間をかけてみることは、なかなかないと思った。
(西原 尚《ブリンブリン》2015年)