母も父も戦中派にありがちの、国を信じない人でした。何しろ、軍国主義一色の教育が、戦争に負けていきなり民主主義でしょう。国の言うことなんていくらでも変わりうる、国の教育なんてろくでもないと本気で思ってるんですよ。

 

だから、2人は私に対して、「教育されるな」みたいなメッセージを発し続けてきたわけ。要は、自分で考えろってことですね。そして両親も自分の人生を選び続けていくのですが、それはなかなか大変な道のりになりました。娘の私もずいぶんそれに巻き込まれたなあ。新しい夫婦関係を模索する中で、2人とも自由恋愛で彼氏・彼女がいたりという状況が目の前にあるわけですよ。

 

あの状況でも私がグレなかったのは、なんだか一所懸命やってることが子どもなりにわかっていたからでしょう。私もへそ曲がりですしね。今思い出しても、激しいです。常にドタバタ芝居。劇場型両親とでも申しましょうか(笑)。

 

(編集部注:宮子さんの新著『両親の送り方〜死にゆく親とどうつきあうか』に、波乱の人生を送られたご両親の生い立ちが描かれています。この本では、父と母の看取りを通して変化していく親子関係のやるせなさと深い愛情、そして「次は自分の番」である死を意識した本当の自立に、真正面から向き合われています)

 

西村:劇場?

 

宮子:そう。舞台の上に家庭があって、観る側と観られる側があって。私は両親の喧嘩の場面では、徹底して見る側でした。ほとんどよそ者。ひたすら見ることに専念しましたねえ。これは私のサバイバルスキルでもあったと思いますが。とても有効でした。たとえば、両親の喧嘩が佳境に入ったとき、一番有効だったのは、友達を連れて来て一緒に見ちゃうこと(笑)!

 

家の外階段から両親が喧嘩している部屋が覗けるんですよ。ガラス越しに丸見えなわけ。それで「みんな! 喧嘩しているよ。見ようよ、見ようよ!」みたいな感じで近所の子を呼んでまわりました。写真も撮っちゃったし私(笑)。親たちもそれを知っていて絶対その部屋でやるんだよね。

 

西村:わかってやってるの(笑)?

 

宮子:喧嘩の最中に私と目が合うからね。「あ、こいつまた友達を連れてくるな」って思いながらやってるのよね(笑)。

 

西村:子どもたちに外から見られていることを意識し、どう見られているかを考えながら……。

 

宮子:サルトルが『存在と無』の中で鍵穴から部屋の中を覗く「わたし」の羞恥心について書いているんだけど、まさにそれ。

 

西村:なるほど。メルロ=ポンティにも「見る/見られる」という議論がありますが、サルトルとはずいぶん違いますね。「森のなかで、私が森を見ているのではないと感じた」「樹が私をみつめ…ているように感じた」という話になりますから。

 

例えば、メルロ=ポンティは『眼と精神』(みすず書房、1966)において、私の身体が〈見るもの〉、つまり能動的な働きをするものであると同時に〈見えるもの〉という見るものの対象でもある、この両義性の謎を、独自の文体で解きほぐしていきます。

 

その記述に伴走していくと、世界を知覚する私の感覚が、私自身に反転し、「もはや何が見、何が見られているのか…わからなくなる」、感覚をかき乱されるような経験に引き込まれます。これまで当たり前だと思っていた「見ること」が何をすることなのかわからなくなる。そのとき、メルロ=ポンティとともにそれを問い直すことを始めている。こんな具合に付き合います。

 

宮子:そのへんが「肉体」と「身体」の違いとも言えそうよね。

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