池田 光穂(いけだ・みつほ)
大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授、2015年より同センター長。1980年鹿児島大学理学部生物学科卒業、1982年大阪大学大学院医学研究科医科学修士課程修了。1989年同大大学院同研究科博士課程(社会医学専攻)を単位取得済退学。中央アメリカの民族誌学、医療人類学が専門。国際保健医療協力の活動経験から、多元的医療体系についての文化人類学的理解に関心を持つ。(CSCD在籍期間2005年〜2016年)
[1]考える力と、かかわる力
池田 まずそもそも、どうして教養やリベラルアーツが看護に必要なんですか? 例えば看護という学問がこのままでは先細りそうとか、あるいは専門化が確立して強くなったんだけど、その分だけしなやかさみたいなものがなくなってきたとか?
─── 学問よりもまず、現場にいるナースが患者さんなり利用者さんなりに接する時、彼らやその家族の当事者性をどう尊重できるか、でしょうか……。
池田 つまり「人がわかる」っていうこと?
─── 端的に言えばそうかもしれません。
池田 わかったらどうなるんだろう? 確かに、人のことがわかったら嬉しい。嬉しいけど、それが看護にとってどう重要なのか。だってケアって契約労働というプラグマティックな行為でもあるわけでしょ?
中岡 契約?
池田 つまり、病院でも生活の現場でもいいんだけど、看護師は職業として患者や利用者とお会いしている間は、その人が心地よくなるように、あるいは苦悩がある程度和らぐようにその行為を遂行するわけですよね。これって「契約」じゃない?
─── 将来、地域包括ケアというものがどんどん進んでいくと、看護師は病院という枠や、今先生のおっしゃった契約的な線があらかじめ引かれた枠外へ出て行って、今はまだ想像もできないような働き方をするかもしれません。あるいは自分たちで働き方をつくっていく必要がある。そう考えた時にナース自身もケアに関係する当事者として、自分が現場で体験する出来事の受け皿である生活や社会、文化のことがより切実になってくると思うんです。
中岡 看護系の大学や学部を出た人の中には、看護師にならない者も少しはいるようだけど、これからは逆にそういう人も看護師をしたくなるのかもしれませんね。医療を取り巻く社会が変われば「看護とはこうだ」という常識みたいなものにうまくはまれない人たちが、新しい看護師の役割を果たせるようになるかもしれないから。
西村 私が最初に現場に出てからもう25年くらいになりますが、その頃は訪問看護もなかったんです。学校では臨床すなわち病院で働くことを前提に、ナースになるトレーニングをしていたように思います。地域包括ケアに向けた教育が十分かどうかはともかく、今は病院だけでなく訪問看護ステーションや高齢者ケア施設もあるから、学生には性格や能力に合ったところで働けばいいのでは? という勧め方はしていますね。
─── 看護師がいろいろな場所で働くようになると連携の形も多様化し、他者と協働するための能力が重要になります。社会のあらゆる分野で「自分自身で考える力」と「コミュニケーション能力」を持った人材が求められるようになってきていますが、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)はまさこの2つを現場(=臨床)で実践する試みの場なのですよね。
中岡 CSCDの理念や沿革について、読者の方にはセンターのホームページをご覧いただくとして、その背景にある臨床哲学の姿勢は「社会のベッドサイド(臨床)におもむく哲学」と表現できるでしょう。医療・看護の方々からすると、それは2つのポイントにつながります。1つは、臨床や職場の日常の「当り前さ」の中で埋没しがちな疑問を見いだし、「これはなぜだろう」とか「これでいいのだろうか」と問い、考える力を育てること。もう1つは、その問いを他の人々に伝え、あるいは他の人々から受けとって共有し、ともに深めていくコミュニケーション力です。この2つがうまく働いてこそ、自分のおかれた場(現場)が本当に見えてくるのではないでしょうか。現場とはただそこにあるものではないのですから。
[1] 考える力とかかわる力
「人がわかったらどうなるんだろう? 確かにわかったら嬉しい。嬉しいけど、それが看護にとってどう重要なの?」── 池田