立ちすくむ看護師はともにある
しかし、まだまだ悩みは尽きません。先にも述べた通り、私たちは現象学者ではなく、現象学に学び、人間諸科学とくに看護学の課題の探求を目指しているのです。だから、じっくり読んだ現象学の文章をどのように各自の研究に反映させることができるのかが問われています。これは幾度も繰り返し問うているので、院生たちも「耳にタコができた」と思っているかもしれません。しかしそれでも、やってしまうのです。現象学の概念をデータの分析にそのまま活用することを……。
いわば、現象学を応用することに、彼らはいとも簡単に陥ってしまうのです。理解し始めたことを活用したいという気持ちはわかりますが、探求が難しいことを自身のテーマとし、わざわざ時間を要する哲学を学びに来たにもかかわらず、それを裏切ることをしてしまっては本末転倒です。私の役割はそれを指摘すること。「現象学を応用してしまってないですか?」と問うことぐらいではないかと思います。
だから、私たちはつねに「問い」を問うのです。関心をもった研究課題には、いかなる問いが含み込まれているのでしょうか。自分はその問いの何にこだわっているのでしょうか。その問いは、いかなる考え方に照らすことで、その構造を浮かび上がらせることができるのでしょうか。その問いへとアプローチするには、いかなる道筋を辿ったらいいのでしょうか。では、具体的にそれをどうしてゆけば、方法となるのでしょうか。得られた情報には、いかなる問いが潜んでいるのでしょうか……。
このように、自らの問いを問い続けます。哲学は、考えることを続けるための基礎体力となって私たちを支えてくれているのです。
基礎体力ができてくると、自ずと研究の記述内に哲学の言葉が侵入してきます。それは、哲学の文章を「使う」のではなく、記述しているその文章に求められて配置されるのです。ここの塩梅が難く、例えばメルロ=ポンティの中心的な仕事の一つに、極端な主観主義と極端な客観主義を結びつけるというものがあります。これはメルロ=ポンティが具体的な記述の中で繰り返し論じた点ですが、彼自身は、何が一方の主観主義であり、また何が他方の客観主義を示しているのかについて説明をしてはしていません。しないのです。
説明のための文体は、自然科学が因果関係を示す際に用いるものです。この文体を使わないせいで「わかること」を遠ざけることになるのですが、すぐさまわかってしまっては、思想が身体化(受肉)しないことはすでに述べたとおり。メルロ=ポンティの思想は、文体からして身体化を欲しているようです。
得た語りやフィールドノーツの分析も変わってきます。その事象が、メルロ=ポンティの記述するような主客二分法の手前にある事態なのであれば、分析はそれを浮かび上がらせる作業となります。例えば、看護師が患者の苦しみを取り除けないことに悩み、患者の傍らに立ちすくんでいるとしましょう。その時、看護師は患者を観察する主体(=見る者)として、患者は看護師に見られる客体としてその場にいるわけではないのです。
看護師の「その場に立ちすくむ」という行為は、患者の苦しみに否応なく応答して実現されており、患者の状態の反映として成り立っています。むしろ患者の状態のほうが看護師をして「その場に立ちすくむ」ことをさせていると言えるのです。この文章において、主体と客体は分離してはいません。