わからないことに耐える
繰り返すことになるのですが、それにしても、気の遠くなる作業です。この作業がどのように成就するのか……。毎年4月から8月の5カ月間、わからないことをわからないままに理解しようともがくゼミ生たちを見ていて、私はこれこそが“哲学すること”ではないか、と深く頷くのです。わからないことをわかったことにして先に進む、あるいは、実際にどうであれ、わかったことにしてしまう。これは危険なことだと思います。
わかりやすさを求める志向も同様です。私たちの生き方も、看護の場面で遭遇することも、容易にはわかってしまわないことばかり。そもそも哲学することは、私たちの生き方、考え方そのものを、自身の課題としてじっくり考え紐解いていくことではないでしょうか。わからないことを簡単にわかってしまわず、わからないことに耐えて、わかろうと考えあぐねる。この「考えることをする」ことが、西村ゼミへの入門となっているのかもしれません。
さて、ゼミ生たちは毎年恒例の「夏合宿」の時期を迎えると、そこに向けて各自が自分の研究を一気に進め、そしてまた10月からの授業の準備に入ります。この時、哲学に向かう態度というか理解というか、ひとことで言うのは難しいのですが、これらが大きく前進し、多くの1年生がそれまでとは違った表現で、言葉遣いで、そしてクオリティで授業に臨んでくることに毎年驚かされるのです。
ですが、当のゼミ生(1年生)たち自身は「あまり変わっていない、まだまだわからない」のだと言います。それはきっと、身体化されつつあることは、はっきり自覚できる次元で起こっているわけではないため、とりわけ自身の思想を理解する枠組みや考えることの前提が大きく変わったことには、すぐには気づけないのでしょう。だから彼らは「まだまだ読み進めなければならない」と言うのです。
先に触れたとおり、毎回の授業では、担当者のゼミ生が哲学書の数頁をまとめたレジュメを準備し、授業前日の17時までに授業参加者のメーリングリストに資料を配信すること、これがルールです。担当者は当日、一体どこへトレッキングに行くのか? と思うほどパンパンに膨らんだバッグを抱え教室にやって来て、机に書物を積み上げ、手元に事典を置き、他の院生の司会に促されて発表を開始します。この瞬間はけっこう緊張するそうです。
発表を終えると、何か大きな行事を終えたような達成感を覚えるとともに、「撃沈」を経験すると言います。この撃沈は、発表時にうまく解説できないだけではなく、理解したつもりでいたことが崩壊していたり、質問などに答える際に、自分の言葉でその哲学者の思想を表現したりすることが、うまくできないために経験されます。思想は、ある程度身体化されていないと言葉にならないためです。もっと言えば、思想はその枠組みを言葉や文体でも表現しているのです。
だから、例えば科学論文を書いたり読んだり説明したりするときのような言葉遣いでは、言いたいことをうまく言い当てることができません。最初はそれがわからないため、言葉を選びながらたどたどしく表現を試み、大抵は途中で言葉の見通しを立てられなくなって玉砕するのです。
それを察知するや否や、榊原先生が“マイチョーク”を取り出し、黒板を使って解説をして下さいます。この解説は、皆がすべてノートに書き写し、時に写真を撮って、次の理解の手がかりとしています。こうした授業を介して膨大なノートも生産されます。それを何度も読み直し、次の資料にも引用し、新たな理解を生んでいきます。今やこの循環が、哲学への入門の矛盾をしっかり受け取りつつ乗り越えていく方法となっているのです。
現象学は、「事象そのものへ立ち帰る」ことをモットーとした哲学です。つねに事象に強いられ、事象に学び、事象に導かれて理解を進めるのです。入門も学習もそうで、メルロ=ポンティ哲学の矛盾、思想の特徴、文体等々が、それを学ぶ者の学び方をも導いています。
ゼミを始めた当初、今のようなスタイルで哲学の探求が継続するとは思っていませんでした。院生たちに任せようと思っていたのが本当のところですが、哲学の考え方や視点を我がものにしようとする院生たちは、自ずと哲学のスタイルに促されてこの方法を編み出し、それを身体化していっています。よくよく考えてみると、それはすごいことだと思うのです。