第1回「パラダイムチェンジとしての
アクティブラーニング」
アクティブの意味は「行動的」ではなく「能動的」
最近、「アクティブラーニング」という言葉が教育界を席巻している。大きな書店に行けば、アクティブラーニングをタイトルに含んだ多種多様の書籍が山積みにされている。そればかりか、テレビのニュースや特集などでも取り上げられることも多く、一般の耳目も集めるようになった。
そうなった直接の理由は、2014年11月20日の文部科学大臣による中央教育審議会への諮問である。そこには「『何を教えるか』という知識の質や量の改善はもちろんのこと、『どのように学ぶか』という、学びの質や深まりを重視することが必要であり、課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習(いわゆる「アクティブ・ラーニング」)や、そのための指導の方法等を充実させていく必要があります」とあり、これ以降、高校でのアクティブラーニング導入が加速化している。
では、そもそも「アクティブラーニング」とは一体何だろうか。「アクティブ・ラーニング」と記述されることもあるが意味的な違いはなく、どちらも英語の「Active Learning」が元になっている。勘違いしがちなのは、このActiveの意味である。「行動的」ではなく「能動的」という意味で捉えるのが正しい。つまり、学習者(生徒や学生)が体を動かしているという意味で行動的なのではなく、自ら進んで学ぶという態度の意味で能動的なのである。
具体的にはどのような学び方なのだろうか。医師や看護師を育成する教育手法としてはおなじみのPBL(Problem Based Learning)や、同じPBLと略称されチームで課題解決を行うプロジェクト型学習(Project Based Learning)もそうであり、またグループで議論するグループワーク、2人で議論するペアワーク、プレゼンテーションなどが具体的な形態としてイメージされる。
しかし、アクティブラーニングを、新しい授業の形態や手法として理解すると、現在進行している大きな教育の転換の本質を見誤ることにもなりかねない。ここでは、アクティブラーニングとは一体何なのかを、できる限り分かりやすく説明することから始めたい。
「教授者中心」から「学習者中心」へ
驚かれるかもしれないが、実は教育界でもアクティブラーニングの確立された定義は存在していない、とされている。筆者が最も適切だと考えるのは、次のような溝上慎一京都大学教授による定義だ。
「一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、 そこで生じる認知プロセスの外化を伴う」
まず基本となっているのが、前半の「一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと」の部分だ。つまり、受動的な学習(Passive Learning)がこれまであって、それを乗り越えるものとされている点である。
ここに基本的なポイントがある。すなわち従来のPassive Learningでは、一体誰がActiveなのか。おわかりだと思うが、これまで学習者が受動的であったということは、教授者が能動的だったのである。これを転換するということが、アクティブラーニングの本質的な意味だ。これまで、世界の教育は日本も含めて教授者中心の教育観が主流であった。これを学習者中心の教育に置き換えるというのが、最も核心的なアクティブラーニングの意義なのである。
では、教授者中心の教育(Teacher Centered Eeducation)から、学習者中心の教育(Learner Centered Education)への転換をどうイメージしたらいいのだろうか。
学習者が聴いていても眠っていてもお構いなく、教授者が自分の用意した講義ノートに基づいてしゃべり続ける大学の講義。読者の中にもそんな授業を受けた経験を持つ方が多いのではないだろうか。これは、教授者中心の教育観の典型である。教授者が語った内容を学生がどれだけ理解したのかは、学生の責任であり、その成果はテストで判定される。
ところが、学習者中心の教育観では、先生が何を語ったかではなく、それらの授業や教育プログラムを受けることで「学習者が何をできるようになったのか=どのような能力を身に付けたのか」を中心的な問題意識としている。
極論すると、教授者がそれ自体としてどんなに素晴らしい内容の講義を行ったとしても、それによって学習者が能力を高めることができなければ、教育としての意味がないということになる。
このように書くと、「???」となる方も多いかもしれない。そこで、もう少し掘り下げて、学ぶということはどういうことかを考えてみたい。
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