5. 精神分析と漫画

 

 フロイト1/2川原 泉花とゆめ白泉社 1989年

かつて哲学と少女漫画家といえば、川原泉の名が第一に挙げられました。彼女の作品には蘊蓄のある言葉があふれ、意表を突く展開が多くみられ、登場人物が思慮深かったり、皮肉屋だったりします。『フロイト1/2』もタイトルそのものに精神分析家フロイトの名が付されており、冒頭より「フロイト教授」が登場します。しかも何故か、神奈川県の小田原で「夢の提灯」を売る「風呂糸屋」という役柄です。なんでも、本作が書かれた年がフロイトの没後50年であったことから思いついたと作者はインタビューで述べています。

 

なお川原には『事象の地平』(白泉社、1998年)という重々しい哲学的タイトルがつけられたエッセー集もあります。その第2章は「究極の12哲人列伝」と題され、彼女のお気に入りの哲学者として、ピタゴラス、ヘラクレイトス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、ロック、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、が登場しており、独特の切り口のコメントを読むことができます。

  F(フロイト)式蘭丸大島弓子月刊セブンティーン集英社 1975年

 

夢や無意識、そして性を取り上げることの多いフロイトの精神分析は、少女漫画のアイデアの源泉ともなっています。大島弓子『F(フロイト)式蘭丸』では、主人公である高校生よき子の自身と母親の再婚相手への性的葛藤が、蘭丸という理想の少年を通じて巧みに描かれ、まさしくタイトルにあるとおり「フロイト」と関わるようです。また、同じ作者の『バナナブレッドのプディング』には、ニーチェのような髭をはやした哲学教授が登場します。ほか、子猫を主人公(擬人化)とした『綿の国星』は、須和野チビのかわいらしさも見逃せませんが、人間の世界を別のパースペクティブからとらえなおすといったニーチェ流の作品とも言えるのではないでしょうか。

 バナナブレッドのプディング大島弓子月刊セブンティーン集英社 1977~78年

 

 綿の国星大島弓子LaLa白泉社 1978~87年

ほかにも、精神分析やエディプスコンプレックス、夢、無意識を取り上げる漫画は、無数にあります。直接的ではありませんが、家族もしくは親子とは一体何か、真剣に考えさせてくれる作品として、三原順『はみだしっ子』を強く勧めたいと思います。特にグレアムとアンジーという2人の少年の語る内容は完全に少年の世界を超越しており、ある種の「対話篇」のようになっています。

 はみだしっ子三原 順花とゆめ 白泉社1975~81年

 

 

6. さまざまな哲学者

 

さてここで、私が監修した本を紹介します。『恋におちた哲学者』では、ハイデガーとアレント、サルトルとボーヴォワール、ニーチェとワーグナー夫人など、大枠は史実や史料に基づきつつも、一部は大胆な仮説をもとに哲学者たちの恋愛模様が描かれています。純情すぎてまともな恋愛ができなかったウィトゲンシュタイン、逆に性の快楽に溺れる中で初めて人間の可能性と限界を見たバタイユ、自分の患者に不倫の恋をしてしまうも、後始末をフロイトに任せてしまったユング……。どの哲学者もかなり「濃い」キャラクターだと言えます。ほかにもヘーゲルやカント、フーコー、その他の哲学者の恋愛模様をめぐるイラスト付きコラムもあります。本書を監修して、人は自分が最も苦手なものをテーマに研究や哲学を始めるのではないか、と痛感しました。

  恋におちた哲学者瀧本往人(監修)、壱コトコ、くしながひろむ、高野弓、御子柴トミィ、梶原あえり、相良一貴東京書籍 2013年

 

毎回1人の思想家に焦点をあてた思想書シリーズの付録冊子に描かれた4コマ漫画を集めた、いしいひさいち『現代思想の遭難者たち』は、デフォルメされた哲学者の容貌とキテレツな言動を小気味よく(皮肉交じりに)まとめられており、少しでも哲学を学んだ人にとっては、非常に面白く読めます。

 現代思想の遭難者たちいしいひさいち講談社 2002年

 

 

7. 東洋哲学と漫画

 

再び巨匠のお出ましです。手塚治虫の『ブッダ』も哲学との関係が極めて深い作品です。学生時代に何度も読み返しました。この同じブッダが、中村光の『聖おにいさん』ではイエスと立川でアパート暮らしをしており、非常に現代風の好(?)青年として描かれています。また同じ中村光の作品で、心を病んだ人物たちが風変わりな共同生活を営んでいる『荒川アンダーザブリッジ』も哲学の匂いがします。さらに小泉吉宏『ブッタとシッタカブッタ』も、絵柄がかわいらしくてシンプルにもかかわらず、本質的かつ真剣な問いを絶えず投げかけています。

 ブッダ手塚治虫希望の友潮出版社 1972~83年

 

 聖おにいさん中村 光モーニング・ツー講談社 2006年~

 荒川アンダーザブリッジ中村 光ヤングガンガンスクエアエニックス2004~15年

 

 ブッタとシッタカブッタ小泉吉宏メディアファクトリー1993年

ほかに、松駒(原作)+ハシモト(作画)の『ニーチェ先生』では、コンビニで働く仏教学部の学生が「神は死んだ」というセリフを使ったことから、一緒に働いている仲間は彼のことを「ニーチェ先生」と呼んでいます。ただし、本作でニーチェの哲学そのものが展開されているわけではありません。社会の規範や常識から少しだけ自由な若者の姿が小気味よく描かれています。「さとり」世代というのが本作のキーワードのようです。

  ニーチェ先生松駒(原作)+ハシモト(作画)月刊コミックムーンKADOKAWA 2013年~

 

本作と対極にあるものとして、浅野いにおの『おやすみプンプン』を取り上げたいと思います。少年「プンプン」はとても自意識が強いのですが、親子関係のもつれから生きることにとても苦しみます。家族や友人、恋人までをも一度否定し、ただ自分の内面だけで生きようとする姿は正直つらすぎますが、この孤独感こそニーチェの境地に近いと言えるかもしれません。実際そうした境遇は絵柄にも現れており、プンプンとその家族以外は普通のタッチで描かれているのですが、プンプンに至ってはヒヨコと鶏の中間のような姿で登場しています。一歩間違えればもうどうにもならないと思いながら物語は進みますが、意外な結末を迎えます(詳しくは書きません)。

  おやすみプンプン浅野いにお週刊ヤングサンデー/ビッグコミック スピリッツ小学館 2007~13年

 

 

8. 海外の哲学漫画

 

そうそう、海外の哲学漫画もご紹介しましょう。メキシコで最も著名な風刺漫画の巨匠リウスの『マルクス』(Marx para principiantes)です。内容はハードですが、非常にコミカルにマルクスが描かれており、英語版をはじめ世界的なベストセラーとなりました。今でこそ、哲学漫画は日本でも増えていますが、彼がその先鞭をつけたと言えるでしょう。実はかつて東京で彼とお会いする機会がありました。とても物静かな方で、お寿司にタバスコをふりかけて美味しそうに食べていたのが印象的でした。

  Marx para principiantesRiusEdiciones De Cultura Popular 1972

 

 

9. 哲学者による漫画論

 

哲学者が書いた本格的な漫画論といえば、永井均『漫画は哲学する』です。「これぞ哲学的」という漫画がふんだんに取り上げられています。そのなかでも絶賛しているのが、吉田戦車の『伝染るんです。』です。連載当時は「不条理漫画」とよく言われたものですが、永井はウィトゲンシュタインが言葉に対して問いかけた内容と重ねて吉田の作品を論じています。私も、本作が哲学漫画の代表作とみなすことに異存はありません。

  漫画は哲学する永井均岩波文庫 2009年

 

  伝染るんです。吉田戦車ビッグコミック スピリッツ小学館 1989~94年

他方、永井があまり「哲学的ではない」と辛口のコメントをした作品に、須賀原洋行『気分は形而上』があります。しかし彼の『新釈 うああ哲学事典』は、大学で哲学を学んだ作者の思い入れがたっぷりと感じられ、私は須賀原のいずれの作品もとても素晴らしいと思っています。

  気分は形而上須賀原洋行週刊モーニング講談社 1980~90年

 

  新釈 うああ哲学事典須賀原洋行週刊モーニング講談社 2004年

ほかに「哲学」がタイトルに含まれいるものを探すと、業田良家『ゴーダ哲学堂』も目につきますが、個人的には南部ヤスヒロと相原コージによる『4コマ哲学教室』を推します。悩める若者の浩とブタ公の「パンもらうよ」という決めゼリフによる、シンプルながらも哲学的な対話が繰り広げられます。ちなみに共著者の南部は高校の倫理政経の先生のようです。

  ゴーダ哲学堂業田良家竹書房文庫 2007年

 

  4コマ哲学教室南部ヤスヒロ+相原コージイーストプレス 2006年

 

10. 漫画家の生き様と哲学

 

「生きること」を考える際に、作者自らの非日常的な実生活に基づいて描かれた次の二つの作品は、生き方そのものが「哲学」を語っています。花輪和一『刑務所の中』は、日常生活の喜びとは何かを、刑務所での暮らしを通して見直させてくれるものです。また、フーコーが『監獄の誕生―監視と処罰』で描いた「調教」「訓育」のシステム化の、日本における実態に触れることができる点も魅力です。そして、吾妻ひでお『失踪日記』では、作者が仕事中に行き詰まり突然家出をして、ホームレス生活を楽しんでいます。これもまた私たちにとって「暮らす」ことに必要なものは、本当のところ一体何なのかをリアルすぎるくらいグイグイと問いかけてきます。古代ギリシア哲学者で樽の中で暮らしたディオゲネスを彷彿とさせます。また彼は断酒の記録も作品化しています。

  刑務所の中花輪和一青林工藝舎 2000年

 

  失踪日記吾妻ひでおイーストプレス  2005年

 

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