さてもう一点、ヘーゲルが人間の「死」についてどう考えたのかを説明しておきます。基本はデカルトやカントと同じように、人の「意識」(=理性)や「思考」が大事なので、そういった人間的な行為が可能でなくなった時点を「死」とみなしています。
そして逆接的なのですが、人間の「死」の究極型は「自然死」であり、他の生きものに食われたり、事故や怪我、病気などで命を落とすのではなく「老衰」が理想であるととらえています。つまり外的な要因で死ぬのは「不自然」で、内的に老いて、天寿を全うしたならばそれは「自然死」ということになります。
しかしこれはあくまでも「個体」の「死」すなわち「消滅」の話です。ヘーゲルにとっては「個人」よりも常に「社会」や「人類」といった大きな枠組みのほうが大事であり、一人の人間の死もまた、他者にその「遺産」や「意志」が引き継がれていくと考えるのです。
そのため、第一に家族における親から子への世代継承が、個人が死んだあとでも個人の「観念」(ヘーゲルは「精神」と言いますが、つまりは「魂」のことです)は代々残されていくものとしてとらえられています。
しかもこれは単に遺伝学的な意味での「伝達」ではありません。友人や会社の同僚、その他、自分が関わっている人たちすべてに、その人の「魂」は死んだあとも残されることになります。
最初にお話しましたように、ヘーゲルにとって歴史は人類の歩んできた道のりであり、その蓄積にはすべての人が参加しており、何らかの形で影響を与え、そうやって現在から未来が形成され、振り返ってみると過去という道がつくられています。
こうしてみるとヘーゲルは「個体」の死を軽視し、「組織」や「国家」などの存続にばかり目が向いてしまっているようにみえます。本当のところはどうなのか、議論は分かれるところですが、ヘーゲルは必ずしも一つの「命」を大事にしていないわけではないと思います。あくまでも「結果」として、その「命」の「犠牲」が価値をもつこともあると考えているのではないでしょうか。
もう少し違う視点から見てみましょう。看護の仕事は患者だけを相手にしているのではなくその家族たちにも及びます。それはヘーゲルの目からみるととても大事なことで、患者の「ケア」とは単に「個体」としての患者に限ることがない、ということを意味します。
単に患者の病気を治すことにのみ、医療はあるのではないでしょうし、特に看護の仕事はそこでかかわった他者との相互承認の弁証法のなかで互いが学びあい、支えあい、助け合う関係でもあるのではないでしょうか。
さあ、どうでしょうか。福祉もそうですがこうしたヘーゲルの考え方もまた、デカルトやカントのような「個人」を中心とした物事のとらえ方とともに、近現代の社会の基本的な考え方として一般化してきたと思います。
さらに言えばヘーゲルのこうした「相互承認論」は、単に「他者」が不可欠であるということばかりでなく、自分と他人との「相互関係」つまり、「相対性」のようなものを強調するとらえ方も生み出しています。
極端に言えば、個人をあまり重視せず全体を重んじたり、一つひとつの「個性」よりも「雰囲気」や「空気」を大事にすしすぎることも起こっています。場合によっては「全体主義」やファシズムのような方向にまで行ってしまうことも歴史的にはありました。
確かに「全体」や「社会」はとても大切なものですが、だからといって「個人」が軽視されるのも、あまりよくないとは思いませんか。
そうすると今度は、個人と全体とのバランスが大事だ、という意見が登場します。
しかしこの両者こそ「バランス」をとるということが最も難しいのです。それではこの「バランス」の問題について次回、「独我論と承認論」の対立として考えてみることにしましょう。
(第5回へつづく)
ヘーゲル G.W.F. Hegel
1770-1831 ドイツ
ゲーテやベートーベン、ナポレオンと同時代人。青年期にフランス革命を体験する一方で連邦分立のドイツにナポレオン侵略するさまをみて民族意識と統一国家を志向する。「弁証法」という方法論から徹底的に現実や歴史を包括する考え方を提示し近代哲学の完成者となる。マルクスが強い影響を受け、社会変革の理論を形成する際の基盤となった。
〈ヘーゲルをめぐる人物相関図〉
◉ 連載の予定(内容は変更になることがあります)
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