デカルトやカントの考え方を知って「ヨーロッパの人たちは、なんだか不思議な考え方をするものだ」と思った方もいるかもしれませんが、自分たちの考えとそれほど遠くないように思いませんか。こうしたヘーゲルの考えをここでは「相互承認論」と呼んでおきましょう(この点については、次回、あらためてこの「相互承認論」とデカルトのような考えである「独我論」とを比較検討してみます)。

 

さて、他者がいて自分がいる。自分がいて他者がいる。ヘーゲルの相互承認論は、実は単にそれだけではありません。先ほど述べましたように「現実」主義的であるため、こうした承認が、実際には単純に「相互」につまり「対等」「平等」にやりとりされるものではない、ということを強調します。

 

自分と相手とは常に同等ではありません。これはみなさんも人間関係でよく出会ってきたと思いますが、家族関係でも友情や恋愛でも「片思い」は多いものですし、深い仲になっていても常にお互いにわかり合っているということなど、まずありえません。

 

つまり、相互承認とは一方的に自分が相手を受け入れたり、または逆に相手が自分のことを受け入れることのほうが多く、アンバランスなものなのです。

 

その証拠に、人と人との間には常に力関係が生まれます。これをヘーゲルは「主と奴(しゅとど)の弁証法」と呼びました。主人と奴隷の関係を人間関係の基礎とみなすわけです。

 

力あるほうが「主」となり、ないほうが「奴」という関係が二人のあいだでつくられます。しかも動物と違っているのは、この場合「奴」こそが、人類の歴史をつくってきたということです。

 

主は力はあるのですが、相互承認論で言えば、要するに奴によって主人と認められてはじめて主なのです。また、主は最初から充足してしまっているので欠乏感もなければ達成感もありません。

 

他方、奴はつねに主によって労働などを強いられますが、これは奴に並々ならぬ成果をもたらします。つまり奴は、いつかは主になろうと常に努力し、実際に主を打倒することまであり、そうした過程こそこれまでの世界史なのだ、とヘーゲルは考えます。

 

世界史とは、主と奴が生死を賭けた戦いを続けてきた結果である、そうヘーゲルは言います。そしてだからこそ、その歴史の積み重ねは昨日よりも今日、今日よりも明日の方が進歩を遂げているはずだ、とみなします。

 

このようにヘーゲルの考え方は非常に「現実」的なので、看護にかかわるみなさんにとっても、それほど違和感はないと思います。実際、最近では福祉社会を構想する際にヘーゲルの哲学に基礎を置くこともしばしばあります。

 

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ヘーゲルについてのデカルトとカントと比べた場合の学生の感想(一部抜粋)

 

ヘーゲルのほうが納得ができる、納得しやすい、分かりやすい、理解しやすかった、共感できた、という意見が多かった。

 

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