連 載
前回は、介護の現場でどのように創造的表現としての哲学的思考を開始すればいいのかについて考えてみました。ところで、こうした哲学的思考は、あなたのスタイルの確立を実現します。今回は、哲学的思考とスタイルの関係を見ていくことにしましょう。
世界に一つだけの花
哲学的思考とは、いわばあなた自身の特異性を肯定することに他なりません。only oneとは世間でよく言われることですが、まさしく哲学的思考を行使することだけが、あなたがonly oneであることを肯定する唯一の仕方なのです。花屋の店先に並んだ花は、もともと特別なonly oneであることに違いありませんが、しかし、ほとんどの場合、価格によって優劣をつけられ、あるいは代替可能なものとして扱われてしまうことでしょう。つまり、何もせずに世界に一つだけの花であり続けることはほぼ不可能なわけです。
しかし、哲学的思考を行うならば、そのようにしか思考できない自分自身の特異性を見出す──あるいは、生み出す──ことでしょう。世界に一つだけの花は、自分自身で考えることによって咲かせるのでなければならないのです。
「考える私」と「できる私」
とはいえ、もし自分にしか考えることができないことを考えるだけでいいのであれば成長など望めないのではないかという疑問を持たれる方もいるかもしれません。しかし、そうではありません。
確かに、成長を「もっとお金持ちになりたい」、「今よりも高い社会的地位につきたい」というような、最善を目指した自己実現という意味で捉えるならば、そのような成長は見込めないことでしょう。そもそも、そうした成長こそが自らの特異性を忘却することに他ならないからです。それは、もっと善い自分になることができるのであるならば、今の自分でなくてもよい、つまり別の自分でもよいという他の可能性に開かれた中でたまたま偶然的に実現された可能的かつ偶然的な自己の実現であり、常に否定されることを免れません。ここには、一切の肯定が入り込む余地などどこにもないのです。
対して、哲学的思考の行使は、必然的な成長──言い換えるならば、首尾一貫した変形という生成変化──を実現します。それは来たるべき成長した自己を否定することなく、つねに必然性の相のもとに──あるいは、現実性の相のもとに──見ることができる、つまり肯定できるのです。なぜなら、第4回で本性とは「私はできる」という力能のことだといいましたが、この「私」とは単なる「考える私」ではなく、身体を持った「できる私」だからです。
「できる」に開かれた身体
私たちはそれぞれ「固有の身体」を持っています。そして、各人の固有の身体は「他の一切の習慣を条件づけ、それらを了解可能なものとする原初的習慣」[注1]つまり、さまざまな習慣を獲得するための習慣の習慣とでもいうべき条件であるとメルロ=ポンティは言います。
たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんに「できる」ことは限られていますが、しかし、赤ちゃんの身体はこれから多くの習慣を獲得「できる」という潜在性=力能[注2]を保持しています。そして、赤ちゃんはこうした潜勢力[用語1]を持った原初的な習慣としての身体を行使することで、さまざまなできることを習慣として獲得していきます。今まで、できなかったことができるようになるということです。
ところで、生まれたばかりの個々の赤ちゃんのできることにそれほど明確な違いはありませんが、発育とともにそれぞれの獲得された習慣に応じて「できる」ことが異なっていきます。例えば、3歳からピアノを習ったならば、ピアノを弾くことができる身体へ、逆上がりを習得したならば、逆上がりができる身体へと変化していくということです。また、身体は獲得された習慣によって、さらに力能が増大してきます。習慣の蓄積によって、新たな「できる」に開かれていくのです。
こうして個々の身体の潜在性としての力能はある傾向性を示すようになります。つまり、その身体だけが「できる」という意味での本性が明確に異なっていくのです。したがって、習慣の獲得とは、自己に固有な身体の本性の変形であると言えるでしょう。私は身体の潜在性としての力能に従って新たなできることを獲得していくわけですが、こうした獲得を通じて身体は新たな「できる」に開かれていくからです。
こうした自己の身体の「できる」に従って、自分にしかできないことをするということ、あるいは自分にしか考えられないことを考えるということは、新たなできることを実現し、かつ別の「できる」という潜在性に開かれていくのですから、それは成長であると言えるでしょう。
とはいえ、自分だけが「できる」ことを、つまりそうでしかありえないことを獲得していくわけですから、こうした成長は可能的なものでも偶然的なものでもなく、必然的であるということができるのです。その意味で、こうした成長は自己の肯定であり、私という首尾一貫した変形なのです。
スタイルについて
こうした首尾一貫した変形とは、自身の生にスタイルを与えることだということができるでしょう。つまり、あなただけのスタイルを確立するということです。そして、哲学的思考は、こうしたスタイルに従って、あなたにしか考えることができないことを考え、また考えることで自らのスタイルを更新していくのです。
昨今、本屋に行くと、「私のスタイル」や「ライフスタイルのつくり方」や「スタイルのある暮らし」などと表紙に書かれた雑誌を目にすることが多くなりましたが、いくらその雑誌に書かれたことを真似しても、自身のスタイルをつくることなどできないでしょう。そもそもスタイルは容易に真似をしたり適用したりできるものではないからです。もし「私のライフスタイル」をつくりたいと望むのであるならば、考えること──自分だけが考えることのできることを考えること──を始める以外にないのです。
そして、あなたが考えることを始めるならば、その時、あなたははじめて自由であるということができます。次回は、自由について考えてみましょう。
▶看護の立場から「そもそも看護という営みは、患者ととともに新たに“できる私”を探していくこと…」(首都大学東京客員教員 坂井志織)
▶ 著者プロフィール
哲学入門を志す人のための読書案内 ⑤
優れた哲学書は、自分自身で考えるための良き伴侶となることでしょう。ここでは、自分自身で考え始めたいと思っている方のために、良き哲学書をご紹介します。
本を読むということは、思考することと同じです。それは、本を読むことによって、独自の解釈を創造することだと言えるでしょう。ですから、「読書こそが、自分でものを考える力を養っていく」と言えるのです。
『世界の散文』(モーリス・メルロ=ポンティ/みすず書房)
前回紹介した『見えるものと見えざるもの』と同様、メルロ=ポンティの死後に刊行された遺稿です。この本では、スタイルについての記述が多くみられるので、メルロ=ポンティの考えるスタイルについて知りたい方にはお勧めの一冊であると言えるでしょう。また、この本には「首尾一貫した変形」という概念も出てきます。
『シーニュ1』(モーリス・メルロ=ポンティ/みすず書房)
スタイルや創造的表現についての記述が見られる「間接的言語と沈黙の声」を収録した論文集です。メルロ=ポンティがレヴィ=ストロースに言及した「モースからクロード・レヴィ=ストロースへ」も収録されています。他にも「言語の現象学について」や「どこにもありどこにもない」など重要な論文が収められた一冊です。
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