前回は、哲学的表現の創造性──つまり、哲学的表現が創造的表現であること──に着目しました。こうした創造的表現としての哲学的思考は、もちろん看護の現場においても有効です。とはいえ、具体的にはどのように思考すればいいのでしょうか。今回は、看護の現場でどのように創造的表現としての哲学的思考を開始すればいいのかを見ていきましょう。
患者は特異な他者である
看護の現場で思考する際、それが創造的表現としての哲学的思考であるためには、まず看護の実行、つまり患者さんに対して何かを行う時、その実行を条件づける構想を同時に生み出す必要があります。またその時、そうした構想、つまり考えられたものを生み出す<考えられるべきもの>について同時に考えなければなりません。しかし、どうすれば看護の現場でこのような哲学的思考を行使することができるのでしょうか。そのためには、患者さんそれぞれを同じ人間というくくりのなかで個別的なAさんやBさんと見なすのではなく、それぞれが特異な他者であると考えなければならないでしょう。
私たちは普段、AさんもBさんも当たり前のように同じ人間だと考えてしまっていますが、それは結果的に手に入れた知であって、AさんやBさんとの出会いを通じてそこから引き出された共通項でしかありません。私たちは人間という一般概念を知るより以前に、特異なAさんやBさんとの出会いを経験しているのであって、日常的思考は原因と結果を取り違えているのです。
それ故、最善の答えをすべての「患者さん」に適用しようという日常的思考の根底には、こうした原因と結果の取り違えが伏在していると言えるでしょう。逆に言えば、ある症状の患者さんに有効であった方法を別の患者さんにも適用してみようという思考は、「患者さん」の特異性を捨象してしまうのです。
コミュニケーションの本当の意味
したがって、哲学的に思考するためには、一般概念によって把捉された「患者さん」に先だって、眼の前にいる特異な「この人」とかかわるのでなくてはなりません。「この人」とのかかわりは、決してマニュアル化できない未知なるものとの出会いなのです。
こうした哲学的思考を発動させるようなかかわりこそ、メルロ=ポンティはコミュニケーションであると考えます[注1]。あるいは、メルロ=ポンティとその友人の文化人類学者クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)が共に使った概念を用いるならば、「野生の看護」[用語1]と言えるかもしれません。
かつて、ヨーロッパ人たちは未開と言われる地域の人々の思考を非合理的で異常なものと見なしました。そして、理解不可能なものをなくすために──つまり理解可能なものにするために──、彼らの特異性を抹殺し、西洋文化に同化しようとしたのです。それに対してレヴィ=ストロースは、彼らの思考を野蛮な思考でも非合理な思考でもなく、具体的な事象を理解しようとする「野生の思考」であると考えました。レヴィ=ストロースはヨーロッパの科学的思考を優位で最善の思考であるとは見なさず、非ヨーロッパ人とその思考に特異性を認め、異文化として尊重したのです。
このように常識的な思考で異文化と向き合うのではなく、それを野生の思考として考え、さらには自らの思考をも普遍知ではなく一つの野生の思考として相対化するような彼の姿勢は、つまり特異なものに対して特異なものとして向き合う姿勢は、まさしく「野生の看護」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。
コミュニケーションとは、こうした私と他者とのかかわりなのです。異なるものとの間においてのみ、特異なもの同士の共存と共生が成り立つのです。そして、このコミュニケーションこそが、哲学的思考を作動させるためになくてはならない交流の在り方であると言えるでしょう。
あなたの「本性」に誠実であること
このような仕方で特異な「この人」と出会い、かかわろうとするならば、おのずと問題提起を伴う思考を行使することになるでしょう。なぜなら「どのようにかかわるのか」ということからして前例のない問題なわけですから、思考を行使するほかないでしょう。しかも、他の誰でもないこの特異な私がかかわるのですから、それは私だけにとっての特異な問題提起となり、私だけが行使する思考となることでしょう。
つまり、特異な出会いから、私だけが考えることのできる<考えられるべきもの>が立ち現れるわけです。
哲学的思考の行使は、さほど難しいことではありません。自身の生に、そして自身の思考に誠実でさえあればよいのです。先に、哲学的思考とは、この私(あなた)が考えることであり、固有の身体を持ち、固有の好みや欲望や感情という傾向性を持ったあなたが考えることであると言いましたが、実を言うとこうした本性とも言うべき傾向性を持ったあなたは、あなたの本性に、あるいはあなたの生に誠実でさえあれば、あなた自身の思考を行使することができる──あなたの本性に必然的な思考を行使することしかできない──のです[注2]。どういうことでしょうか。
本性とはなにか
知覚や認識によって捉えられた対象は、万人にとって同じ対象では決してありません。それは感情的価値を持っています。例えば、右と左を例にして考えてみましょう。私の右の空間と左の空間は、幾何学的に言えば等価で交換可能な空間ですが、もしあなたが右利きであればどうでしょうか。同じ価格の商品があなたの右と左に置かれている場合、あなたにとっては右に置かれた商品の方が取りやすいのではないでしょうか。あるいは、喫茶店で注文する時、もしあなたが珈琲を飲むことができなければ、あなたは珈琲を注文せずに、別のものを注文するでしょう。
もちろん、「右」や「珈琲」だけではありません。同じものを見ていたとしても、個々人によって価値が異なります。すべてはあなたの本性によって価値づけられた仕方で理解されているのです。本性とは、「私はできる」という力能[用語2]のことです。それは人間一般の本性ではなく、あなたの本性です。個々人は客観的な認識に先立ち、自らの本性に従って対象を把捉──すなわち対象化──しているのです。
一人のケアと向き合うとき、哲学的思考は開始する
メルロ=ポンティは主著『知覚の現象学』を、サン=テグジュペリの『戦う操縦士』からの引用で擱筆しています。その引用とは、「君の息子は火事の中で身動きできずにいる。君は彼を助けるのだ……もし邪魔なものがあれば、君はそれを取り除くために自分の腕を犠牲にすることもいとわないだろう。君は君の行為そのものに宿っている。君の行為こそ君である……」という文章です。もし、あなたに息子がいて、その息子が文字通り火宅の中にいるのであれば、他の人が諦めていたとしてもあなたはどうにかしようと考え、必ず息子を助けることを決断するはずです。それがあなたの決断であり、あなたの思考であり、あなた自身の表現です。
つまり、この思考と決断こそが、あなたの本性に必然的な哲学的思考の行使とそれに裏付けられた実行であり、あなたにしかできない──あなただけができる──創造的表現なのです。それは、あなただけがその人について考えることができることを考え、決断し、実行するということです。こうした例を見れば、看護の現場においても考えるということがどのようなことであり、どのように考えればいいのかということを理解していただけるのではないでしょうか [注3]。
もちろん、ここで模範解答をお見せすることはできません。それは、あなたが考えることによってしか、実現できないものなのですから。しかし、もしあなたが特異な「この人」にかかわろうとするならば、すでに哲学的思考は開始されることになるでしょう。なぜなら、実は目の前にいる人を「患者さん」のうちの一人として扱うのではなく、特異なものと見なし、かかわるということからしてすでに、哲学的思考は開始されているからなのです。
こうした哲学的思考は、「この私(あなた)」のスタイルの確立を実現します。次回は、哲学的思考とスタイルの関係に注目してみましょう。
▶ 看護の立場から「私は、患者を “見て・きいて・感じる” ことから、かかわりを始めていきます。これこそ、私の “生に誠実” であることなのでしょう……」
哲学入門を志す人のための読書案内 ④
優れた哲学書は、自分自身で考えるための良き伴侶となることでしょう。ここでは、自分自身で考え始めたいと思っている方のために、良き哲学書をご紹介します。
本を読むということは、思考することと同じです。それは、本を読むことによって、独自の解釈を創造することだと言えるでしょう。ですから、「読書こそが、自分でものを考える力を養っていく」と言えるのです。
『野生の思考』(クロード・レヴィ=ストロース/みすず書房)
本文と用語解説で紹介した「野生の思考」について書かれています。手っ取り早く「野生の思考」について知りたい方には、第八章から読むことをお勧めします。この章では、レヴィ=ストロース自身によって、「野生の思考」がどのような思考であるのかが記述されています。なお『野生の思考』は1962年に出版された本ですが、この本の1ページ目には「メルロ=ポンティの思い出に」と、前年に亡くなったメルロ=ポンティの名前が掲げられています。
『見えるものと見えざるもの』
(モーリス・メルロ=ポンティ/法政大学出版局)
メルロ=ポンティの死後に刊行された遺稿です。この本に収録された「研究ノート」の中に「野生」についての記述がいくつか見られます。メルロ=ポンティの「野生」について知りたい方は、手に取られることをお勧めします。この本は大変難しい本ですが、『知覚の現象学』と同様に、自分自身で考え始めたいと思っている方にとって打ってつけの哲学書であることは間違いありません。
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