前回は、日常的思考と対比させることで、哲学的思考を浮き彫りにしました。

今回は、哲学的思考の創造性に着目してみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

模倣ができないということ

 

さて、前回見てきた哲学的思考によって考えられたことは、これまで誰にも考えられたことがなかったわけですから、極めて新しい思考であるということができます。しかも、別の新しい考え方によって乗り越えられ、取って替わられるという可能性をはじめから想定していない考え方であるために、そもそも古くなるという可能性のある「新しい」思考ではなく、ある意味で永遠に新しい思考であるということもできるでしょう。

 

もちろん、哲学的思考はすでに存在した思考の乗り越えでもありません。また、それは誰かの考えの模倣や適用ではなく、誰かによって模倣されたり適用されたりすることもないのですから、極めて創造的な思考であるということができるかもしれません。

 

とはいえ、神の御業ように無から生み出す故、創造的と言われるわけではありません。仮に神が存在したとして、そのような神がたとえ天地創造を行ったのだとしても、創造されたものは誰かによって模倣されたり適用されたりすることができます。そもそも模倣可能な思考なわけです。しかし、哲学的思考は、「私」だけが考えることのできる思考なわけですから、ある意味で模倣不可能な思考であり、決して模倣可能な思考にはならない[注1] という意味でも、創造的な思考であるわけです。

 

 

考えることと、考えられるべきものとの関係

 

こうした哲学的思考のことを20世紀のフランスの哲学者メルロ=ポンティ(1908-1961)は、「創造的表現」と言っています。ただしメルロ=ポンティは、表現されたものが永遠に新しいからという理由だけで、創造的であると言っているのではありません。彼は哲学的思考だけでなく、真正な芸術的表現なども含めて、「そもそものはじめから文化を引き受け、それを新たに築きあげる」[注2] 営為を創造的表現であるといいます。

 

ここには、ある種の「引き受け」がある以上、完全な無からの創造ではありません。しかし、彼はまた「最初の人間が語ったかのように語り、かつて誰一人描いたことのなかったかのように描く」[注3] のであり、「その場合、表現とはすでに明白になっている思考の翻訳ではありえない。なぜなら、明白な思考とは私たちの中で、あるいは他の人々によって、すでに語られた思考であるからだ」[注4] とも言っています。

 

これだけを見ると、単に誰も考えたことがないことを考えるから創造的であると言われているようにも見えますが、重要なのは〈「コンセプション(構想)」が「実行」に先立つことはできない〉[注5]と言われている点です。メルロ=ポンティは「表現以前にあるのは、漠然とした熱気だけなのであって、創り上げられ理解された作品だけが、私たちがそこに無というよりもむしろ何ものかを見出すべきであることを証明することになるだろう」[注6]とも言っていますが、自分が何を考えていたのかを表現する以前に、つまり思考を表現する以前にその思考を形づける構想や考えられたものが存在しないだけでなく、考えられていなかった「何ものか」──すなわち、<考えられるべきもの>もあらかじめ存在しているわけではないと言っているのです。

 

つまり、考えることが同時に<考えられるべきもの>を生み出すということです。その意味で、思考とは思考されていなかったものについての思考であるとも言うことができるでしょう。

 

とはいえ、単純に「実行」が「構想」に、考えることが<考えられるべきもの>に先立っているわけでもありません。考えることが<考えられるべきもの>を発生させると同時に、<考えられるべきもの>が私たちに考えることを要請するのです。<考えられるべきもの>は、考えることを駆り立てる動機や条件として作用するということです。

 

思考と思考の動機ないし条件、実際に考えることと考えられるべきことは、どちらがどちらに先立つでもなく同時発生的であり、相互に相手を裏打ちするような円環的関係を形成しています。メルロ=ポンティが哲学的思考を創造的表現であると考えるのは、思考を創造すると同時にその思考の条件をも創造するからなのです。

 

 

コンセプトと実行の両方が創造的であること

 

それ故、自らの思考の条件をも形成することのない思考は、決して創造的とは言えないということになります。自分の思考を特異で創造的なものにするためには、その特異な思考だけを産出する特異な原因を生み出さなければならないのです。

 

このように思考の創造的条件は、自分の思考にとってのみ条件として働く、あるいは原因として作用するそうした条件や原因である以上、他の思考には適用することができません。それは誰にとっても同様に働くような原因ではないということです。イチローのコンセプトは彼の実行が生み出したものであり、彼の実行のみを規定する、つまりイチローにとってのみ意味のあるコンセプトなのであって、彼が特異であると言われるのは、まさしく、彼のヒットの打ち方だけでなく、そのコンセプトまでもが創造的で特異であるからなのです。

 

こうした創造的表現としての哲学的思考は、看護の現場においても有効です。次回は、看護の現場でどのように創造的表現としての哲学的思考を開始すればいいのかを見ることにしましょう。

 

 

看護の立場から「患者の言葉や経験にいかに触れていこうかとまず考え始め、同時に考えられるべきことが生み出され……」(日本赤十字秋田看護大学 齋藤 貴子)

著者プロフィール

哲学入門〜あなたにしか考えることができないことを、考えるために。

第3回「考えることの創造性~哲学的思考と創造的表現」

杉本 隆久

著者プロフィール

連 載

哲学入門を志す人のための読書案内 ③

 

優れた哲学書は、自分自身で考えるための良き伴侶となることでしょう。ここでは、自分自身で考え始めたいと思っている方のために、良き哲学書をご紹介します。

 

本を読むということは、思考することと同じです。それは、本を読むことによって、独自の解釈を創造することだと言えるでしょう。ですから、「読書こそが、自分でものを考える力を養っていく」と言えるのです。

『意味と無意味』(モーリス・メルロ=ポンティ/みすず書房)

今回、本文で引用した文章は、この著作に収録されている論文「セザンヌの疑惑」から引用しました。本書には「セザンヌの疑惑」以外にも、重要な論文が収められていますが、特に「序文」が重要です。メルロ=ポンティは「セザンヌの疑惑」で創造的表現について書いていましたが、「序文」では「理性の新たな観念を作る必要がある」(p.7/p.1)と宣言しているように、この著作自体がメルロ=ポンティによる創造的表現の産物ということもできるでしょう。なお、第1回で紹介した『メルロ=ポンティ・コレクション』にも、「セザンヌの疑惑」は収録されています。

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