第1回では、自分自身で考え始めることが哲学に入門することであるということをご理解いただけたと思います。しかし、自分自身で考えるといっても、あらかじめ自明な対象──あるいは問題──を前提とすることなく考えるとはどういうことなのでしょうか。今回は、日常的思考と哲学的思考の対比から見ていくことにしましょう。
すでに存在している解答を求める思考
哲学的思考とは、第1回で見たようにあらかじめ自明な対象を前提としないような思考の様式です。言い換えるならば、それは問題提起型の思考であるということができます。対して、日常的思考とは、こちらも第1回で触れたように一般的な対象を前提とするような思考の状態です。これは問題解決型の──あるいは模範解答型の──思考と言い換えることができます[注1]。
まずは、後者から見ていきますが、日常的思考とは他の誰かの思考の成果を踏まえた上で思考することです。例えば、皆さんが看護学を学ぶ際、すでに他の誰かによって果たされた看護についての考え方を前提としています。それは、現場で患者さんに接するときも同様です。「こうしたケースではどう対処したらいいのか」と考える場合、この問題に対する最善の解答、つまりすでに他の誰かによって考えられた成果=答えを探そうとしているわけです。
あるいは自身の経験則に従うという場合も、過去に自分が考えた成果=答えに従うということになります。こうした思考は、問題となっている事象に対して、すでに存在している解答を適用する役割しか担っていないと言えるでしょう。
このような思考が日常的思考と呼ばれる理由は、日常生活において「考える」と言われることのほとんどが、この手の思考だからです。「良い人生を送るためにはどうしたらいいだろうか」といった一見すると高尚だと思われるような問題から、「どんなサービスを生み出し、それをどのように広げていくか」といったビジネスの問題、さらには「どの服を買おうか」、「今晩は何を食べようか」といった日常の些細な問題に至るまで、私たちはほとんどすべてといっていいほど問題解決型の適用的思考を用いています。
この時、私たちは私たち自身で思考しているのでも、私たち自身が自分の生に対して誠実に生きているのでもなく、誰かに思考してもらい、誰かの生を生きているということとほとんど変わりありません。日常的思考の使用は、自分で考えてはいないのです。自分で生きることを拒否しているとも言えるでしょう。
考え抜くことで答えは生み出される
これに対して、哲学的思考のみが、自分で考え、自分の生を生きることを現実化します。誰かが出した答えを前提にしたり適用したりすることなく、自分だけが考えることのできる問題として問題提起を行うからです。
例えば、野球選手のイチローは「どうやってヒットを打ったのかが問題です」と言っていますが、イチローの場合、この事後的に確認される「どうやってヒットを打ったか」という問題の指標となる「どうやってヒットを打つか」という問題は、日常的思考によって問われるような問いと異なります。
彼にとって「どうやってヒットを打つか」という問題は、あらゆる野球選手が抱くような共通の問題でも、あるいは最善の「ヒットの打ち方」があると前提した上での問いでもありません。また、別様の仕方でいえば、思考に先立つような問いでもないといえます。誰にとっても共通の問いとして、先在しているわけではないということです。
哲学的に思考するとは、自分にとってだけの問いかけを提起することであり、同時にその問題を自分だけの問題として考えるということです。考えることが、同時に問題を発生させることになる──すなわち、考えることによって、自分にとっての問題が明らかになってくる──のです。もちろん、誰も問いかけたことがないわけですから、こうした問題に対する答えはあらかじめ用意されていません。イチローが考え抜いたことで、はじめて答えは生み出されたわけです。その答えの一部が、彼のヒットの打ち方であると言えるでしょう。「人のアドヴァイスを聞いているようでは、どんどん悪い方に行きます」ともイチローは言っていますが、イチローは哲学的思考を実践していたわけです。
他者に代替されない、私だけの思考
このような哲学的思考は、適用すべき解答をもたず、手すりなくして思考を形づくる営為でもあるため、形成的な思考ということができるでしょう。そして形成的思考は、ある意味で必然的な思考でもあるということができます。そのように考える他はないという意味で、そうでしかあり得なかったからです。
イチローは、たまたま今あるような打ち方をしているわけではありません。別の打ち方でも良かったわけではなく、彼は考えた結果、必然的にあの打ち方に辿りついたわけです。それに対して適用的思考は、可能的かつ偶然的な思考であるということができるでしょう。それはイチローだけが考えることのできた思考ではなく、他の誰でも考えることができたという可能性の中で、たまたまある人が先に考えたという意味で可能的かつ偶然的な思考であり、またもっと良い答えが見つかればその答えでなくてもよかった、つまり別の答えでも良かったという他の可能性に開かれた中でたまたま偶然的に採用されたという意味でも可能的かつ偶然的な思考であると言えます。
科学的思考や言説が常に乗り越えられる可能性にある仮説にすぎないように、最善と言われる患者さんへの接し方は、新たな考え方が出てくることで取って代わられることでしょう。このような偶然性の中で選択された代替可能で個別的な適用的思考に対して、形成的思考はそのようにしか考えることができないという代替不可能で特異な思考の表現だと言えます。
イチローは出会う前には決して存在していなかった思考の結果と出会いました。しかも出会うべくして出会ったのです。その意味で、形成的思考は出会いの思考と呼べるかもしれません[注2] 。あるいは、適用的思考がどこかに埋められた宝を発見しようとする宝探し的な思考ならば、形成的思考は外部の目的ではなく、自らを原因として行動する冒険的思考であるとも言えるでしょう。
哲学とは、思考可能なことを考えることではなく、私だけが考えることができる──私にしか考えることができない──という意味で他者にとっては思考不可能なことを考える思考の特異な実践なのです。
こうした特異な思考の実践は、極めて創造的であるということができます。次回は、哲学的思考の創造性に着目してみます。
▶ 看護の立場から(首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程 細野知子)「おそらくそこでは、問題解決とは別のことが起こっていたのではないでしょうか?」
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哲学入門を志す人のための読書案内
優れた哲学書は、自分自身で考えるための良き伴侶となることでしょう。ここでは、自分自身で考え始めたいと思っている方のために、良き哲学書をご紹介します。
本を読むということは、思考することと同じです。それは、本を読むことによって、独自の解釈を創造することだと言えるでしょう。ですから、「読書こそが、自分でものを考える力を養っていく」と言えるのです。
『超人の倫理──<哲学すること>入門』(江川隆男著/河出ブックス)
いわゆる概論的な「哲学入門」ではなく、著者自身の思考の実践と足跡を記した、まさに自分自身で「哲学すること」が如何なることであるのかを考えるのにこれ以上ない「哲学入門書=哲学書」です。スピノザ、ニーチェ、ドゥルーズとともに、「この私」の一つの生の肯定という本質的な事柄について問題提起しています。
『先生はえらい』(内田樹著/ちくまプリマー新書)
「出会うべくして出会う」ということが、どういうことなのかを考えたい人にお勧めの一冊。タイトルだけ見ると、権威を振りかざすような内容なのではと懸念する方もいるかもしれませんが、内容はいたって哲学的です。様々な例を用いて著者の思考を平易に記した、これぞ「哲学書」と呼ぶにふさわしい入門書です。次回以降で取り上げる予定の「コミュニケーション」や「創造」についても触れています。
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