客観性と一般性の呪縛
哲学とは何でしょうか[注1]。ちょっと考えてみましょう。他の学問を見た場合、例えば看護学であれば「看護についての学問」、経済学であれば「経済についての学問」というように、日本語で「○○学」といわれるものの多くは「○○についての学問」を意味しています。もちろん例外もありますが、学問は基本的に研究対象によって分類されていると言えるわけです。
しかし、哲学はこうした諸学問とは異なります。哲学は他の学問のように、あらかじめ自明な対象を持ちません。とはいえ、何かについて考えないということでもありません。むしろ、その何かを発生させるような仕方で考えるそうした思考の営為、言い換えるならば、考え始めることで自分が何について考えていたのかが明らかになっていく「思考する思考」の行使、その意味で自らの特異な[用語1]対象を生み出すような学問こそが哲学であると言えるでしょう。
一言でいうなら、哲学とは根源から──あるいは根源において──考える学問だということです。ですから、哲学とは思考の系譜学[用語2]であるということもできるでしょう。しかし、こうした哲学は、いわゆる「根本から考えなおすこと」と定義されるような伝統的な「哲学」とは優れて異なります。
「根本から考える」ような「哲学」はそもそも「○○とは何か」と考えるような学問であり、そもそも考えることに先立って○○を前提していることになります。すでに常に客観性と一般性という呪縛に囚われてしまっているのです。例えば、そもそも「愛とはなにか」、「友情とは何か」、「看護とは何か」と問う場合、すべての人に共通の愛や友情や看護についてすでにある程度は知っているからこそ問を立てることができるのです。
こうした知を前提としている限り、それは「根源的」な問いかけではないと言わなければならないでしょう。しかし、真正な意味での哲学は、こうした規定的な知を前提とすることはないのです。
この私が考える
このように考えられた哲学は、考えることを改めて学ぶことである、と言い換えることもできるでしょう。
私たちは普段、物事について考えるとき、自覚するとしないとにかかわらず、多くの制約や前提のなかで考えているわけですが、そうした制約や前提をも哲学は問いかけの俎上に載せることになります。とはいえ、何も哲学は無制約・無条件で考えるということではありません。私たちは否応なくある条件のもとでしか思考することができないということ、そのことを学び直すことが哲学であるということです。
では、その条件とは何でしょうか。それは「この私が考える」ということです[注2] 。つまり、私たち自身がそれぞれに考えるということであり、それはある固有の身体を持ち、ある好みや欲望や感情の傾向性を持った「この私(あなた)」が考えるということです。思考する上で、決してそれなくしては考えることなどできない「この私(あなた)」の本性とも言うべき傾向性。それこそが、私たちそれぞれの思考の条件なのです。
哲学はどこにも用意されていない
今一度整理して言えば、哲学とはある傾向性を持った「この私」が、問われるものを前提にすることなく客観性や一般性[注3]に先立って自分自身で考えることです。
では、こうした哲学に入門するにはどうしたらいいのでしょうか。まずは「哲学」の概論書をひもとくべきでしょうか。あるいは、哲学史の勉強から始めるべきでしょうか。そうではありません。それらは必ずしも無意味とはいえませんが、しかし、哲学=思考する上で、本質的なことではありません。
哲学に入門するには、外部から「哲学とは何か」と概観するのではなく、自分自身で考えることを始めるだけでいいのです。入門する以前に、言い換えるならば自分で考え始める以前に、哲学はどこかにあらかじめ用意されているわけではありません。自分自身で考えることでしか、自らの哲学を生み出すことはできないのです。この思考の営為こそが、同時に問いの対象としての「哲学」をあらかじめ前提としない「哲学とは何か」という問題提起であり、それが哲学を始めること、つまり哲学に入門することなのです。
では、「対象をあらかじめ前提とすることなく、自分自身で考える」ということはどういうことなのでしょうか。次回は、こうした哲学的思考について日常的な思考と対比しながら見て行くことにしましょう。
(第2回は、4月25日に公開予定です)
哲学入門を志す人のための読書案内
優れた哲学書は、自分自身で考えるための良き伴侶となることでしょう。ここでは、自分自身で考え始めたいと思っている方のために、良き哲学書をご紹介します。
ところで、ショーペンハウアーは『読書について』(岩波文庫)の中で、「読書は他人にものを考えてもらうことである。……ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。」(pp.127-128)と書いていますが、もしそうであるとしたら、それは著者だけがその著作に書かれている秘密──つまり、著者が何を言おうとしているのかということ──をすべて知っていると考えているからです。
しかし、解答があらかじめどこかに用意されているわけではないように、まったき秘密などどこにも存在してはいません。存在するのは作品の真の意味ではなく、ニーチェが言うように個々の──特異な──解釈だけなのです。本を読むということは、思考することと同じです。それは、本を読むことによって、独自の解釈を創造することだと言えるでしょう。ですから、ショーペンハウアーに抗して、「読書こそが、自分でものを考える力を養っていく」と言えるのです。
『知覚の現象学』
(モーリス・メルロ=ポンティ著、中島盛夫訳/法政大学出版局)
脚注や用語解説でも触れた20世紀のフランスの哲学者メルロ=ポンティ(1908-1961)の主著です。この著作において、メルロ=ポンティは自分自身で考えるということがいかなることか──つまり、自分自身で考えること──を実践しています。『知覚の現象学』は、自分自身で考え始めたいと思っている方にとって、哲学することを教えてくれる恰好の哲学書であると言えるでしょう。
『メルロ=ポンティ・コレクション』
(モーリス・メルロ=ポンティ著、中山元編訳/ちくま学芸文庫)
『知覚の現象学』はかなり厚い本ですので、哲学に入門したいという方にとっては敷居が高いかもしれません。そんな方には、この本をおすすめします。この本を読めば、メルロ=ポンティのエッセンスを掴むことができると思います。この本に収録されている「表現としての身体と言葉」と「セザンヌの疑い」は、第3回で言及する「創造的表現」を理解するために、必読であると言えるでしょう。
『KAWADE道の手帖 メルロ=ポンティ 哲学のはじまり/はじまりの哲学』(河出書房新社)
メルロ=ポンティという哲学者がどんな人であり、どんなことを考えたのかということを手っ取り早く知りたい人にとっては、とても参考になる本です。この本の中で私は「入ることと始めること」という哲学入門を書いていますので、この「哲学入門」と併せて読んで頂ければ、「哲学とは何か」ということに対する理解が深まるのではないかと思っています。
『新哲学入門』(廣松渉 著/岩波新書)
脚注で触れたので紹介しておきます。この本の中で廣松は「認識するとはどういうことか」「存在するとはどういうことか」「実践するとはどういうことか」について自分自身で考えています。その意味で、自分自身で考え始めようと思っている方にとっては、最良のお手本であると言えると思います。廣松の『新哲学入門』は、この「哲学入門」とすべてが符合するわけではありませんが、一読するに値する本であることは間違いありません。
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