コラム
「問い」の足場 〜 看護過程における主観と客観
大久保 功子・家髙 洋
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H.ietaka
そもそも「主観」と「客観」がまったく無関係のように見えるのはなぜでしょうか。現象学的な立場からこの問題をとらえると、経験というものは「経験のなかで、各人において経験されていること」が時として隠蔽され、忘却され1)、あるいは否定されているからだと言えます。以下に詳しく説明していきましょう。
日常的な場面において「客観」という考え方にはそれほど問題があるとは思われない方も多いでしょう。通常の「物(客観)」は、人が知覚しているかどうかとは無関係に存在しているのであって、誰かに知覚されるかどうかということは、その「物」にとっては偶然のことにしかすぎないと、多くの場合そう見なされているからです。われわれは基本的にこのように考え、信じて毎日を過ごしています。
すでに知られている日常的な物(客観)の場合、このことはそのまま当てはまるでしょう。しかし、今までまったく観察されず発見されていないような物や物体についてはどうでしょうか。果たしてこれらは「存在する」と言えるのでしょうか。さらには既知の物(客観)であっても、誰もそれを観察していない場合、それは本当に「存在する」のでしょうか。
厳密な確証を求めるならば、何らかの「物(客観)」が「人間の観察から独立して存在している」というのは「仮定」であって、その「物」の存在を確証するためには何らかの観察が不可欠であると考えられます。
つまり、人による観察や関与がなければ、「客観」は存在しないということです。
さて、現象学は経験に立ち返り、さまざまな事象の成立を明らかにしようとしますが、この「客観」の問題では、「ある物が人間とは無関係に自存していること」が「経験される」というところに着目します。
これは一見、逆説的あるいは矛盾の生じる事態です。というのは「人間とは無関係に存在する」ことが「人間の経験において生じる」ことになるからです。ですが経験とは、自らを隠蔽するという独特の在り方をしているのです。身近な例を挙げましょう。
たとえば、歩きながら目の前の木を見ているとしましょう。その木の見え方は、それぞれの瞬間ごとに変わります。だからといってわれわれは、それぞれの瞬間ごとに別の木を見ているのではなく、ずっと同じ木を見ているとみなしています。
つまり経験のなかでは、瞬間ごとに与えられてその都度異なる感覚や知覚だけでなく、その木がずっと「同一である」とみなす契機も機能しているのです。これをフッサールは「意味」と言います2)。
この「意味」があるおかげで、歩きながら木に近づいて行く際、見かけの大きさが刻々と変化しながらも、同じ木をずっと見ているとみなされるのです。このような経験が「木は、見て歩いている自分とは独立に存在する」ということの一つの確証となっています。
また、遠くにある木に向かって歩いて行くと、実はそれは木ではなかったということも時として経験されるでしょう(壊れた電柱だったとか)。こうした経験の「訂正」では、経験を変えていく別の「存在」が経験されていると言えるでしょう。
このような出来事も、経験から独立して存在する「物」つまり「客観」の成立に関わっていると考えられます。ここでは経験の中でこそ、経験の「外」にあるとみなされる「物」が存在しうることが重要なポイントとなっています。
以上のように、われわれは経験の中で、自分の経験から独立しているような「物」を経験しますが、フッサールは、まだこの段階ではこのような「物」を「客観的」と呼びません。というのは、この「物」については自分しか経験しておらず、もしかするとデカルトが仮定するように、この自分の経験は夢かもしれないからです。
フッサールによれば、自分一人だけでなく、他の人々もこの「物」を経験することによって、この「物」は「客観性」を持つようになります。つまり「客観性」とは、われわれが一切関与せずわれわれの主観と無関係に存在している事態ではなく、われわれ誰にとっても同じように把握されうる事態なのです。
言い換えれば「それぞれの人の恣意性に左右されず把握される」こと、つまりそれは「各人のバイアスや価値観の影響を受けていないこと」であり、このような客観性を獲得するために、科学がさまざまな方法を用いているのです。
そして、言語的コミュニケーションも客観性には不可欠です。たとえば隣の人が私と同じ木を見ているかどうかは、言語的に確認する以外に手段がないからです。もちろん、隣りにいる人が木の知覚について発言しているのを聞いても、相手の知覚そのものを経験することはできません。つまり知覚そのものをコミュニケートすることはできないのですが、他方、知覚を言葉にしてコミュニケーションを行うことで多くの場合は十分なのです3)。
「客観」についての現象学的な考え方をまとめると、第一に経験のなかで「経験から独立して存在しうるような物」が経験されること、第二に多くの人にも同様の経験がなされうること、という二つが挙げられます。
すなわち、「客観」の成立には人(広義での「主観」)が関与しているのです。科学史が教えてくれるように、客観的な認識というものが変わりうる理由は、まさに人が関与しているからです。他方、この関与が忘れられると、(主観から独立した)「客観そのもの」が「存在する」と考えられるようになるのでしょう。
大久保先生、いかがでしょうか?