キュビスム絵画と「編み込み」
榊原 そうだとすれば、やはりその看護師さんの視点に立っているということになると思います。いろいろな立場や職種の人からどう見えているのかを集めることが、もしかすると西村さんが「側面的普遍」という概念で言おうとされていることにもつながるかもしれないと、今、思いました。つまりそれぞれの人が側面から見ているものが合わさっていくわけですよね。
村上 そうなのです。僕のイメージだとピカソやブラックのキュビスム絵画に似ています。あるいは現代アーティストとしてかつてのポップ・アートの動向にも参加していたデビッド・ホックニーによるカメラワークに「ポラロイド・コラージュ」というものがあります。同一の被写体の部分をいろいろな角度から撮ったスナップ写真を貼り合わせ、プールや街角、椅子や人物などの対象を一つの作品として再構成させたものです。これにすごく類似点を感じています。
西村 私はちょっと違います。絵画のような視覚的イメージではなくて、むしろ「編み込んでいく」感じ。村上さんがおっしゃっていた「言葉をつくる」こともまさにそうですが、そこでは複数の者が対話をしたり関わり合ったりすることによって、個人の主観的な経験を超える経験を作っていきます。私たちが主観的だと思っていることは、現象学の言葉で言えば「間主観的」なもので、さまざまな状況や人、あるいは人の視線、関心やあるいは無視もそうで──無視とは、ある意図をもって避けていることだから──、そういう中で私たちがそのつど形づくっている経験の意味なのです。私たち一人ひとりの経験とされているものも、さまざまな状況や人との対話が自覚の有無を問わずなされていて、そこにおいて生起しているのだから、どちらかといえばキュビスム的なイメージよりも「編み込み」という言葉に近いです。
榊原 つまりコンテクスト(文脈)ですね。
西村 むしろそういう言葉の方がぴったりします。
村上 編み目がともに編み込まれていくような。
西村 そう。たとえば他の病棟から異動してきた看護師が「この病棟には暗黙の方針があってよくわからない」と語っていましたが、暗黙の方針は人々がその場という「編み目」に組み込まれていくことによって新たにつくり替えられていきます。そうして異動してきた看護師も暗黙のルールの組み替えに参加し、それが知らない間に営まれていくために、当の看護師においても暗黙になっていく。その複数の視点が関与して作らえていくというイメージに、私はメルロ=ポンティから引用した側面的普遍という言葉を与えているのですが、これは他者にも了解可能な「拡張された経験」とも言われるものです。他者にも理解され得るのだけど、やはり編み目に入っていかなければその十全な理解は難しい。
村上 すごくきれいなイメージですね。一つ足したいのですが、西村さんのグループインタビューだけでなく、僕が集めている個人の語りでもそういう側面が強くあると意識しています。インタビューとはいろいろな会話の集積ですが、その内容は「あの人にこう言っていた」とか「患者さんにこう言われた」というふうに「誰々さん」についての話がたくさん出てきます。つまりある個人の語りというものは、実はすごく多くの声の集積体でもあるのです。それらが編み込まれた形でしか一人の人物の声は成立しない。つまり一つの声がすでに多声なのです。グループインタビューでは、そういう「ポリフォニックな一つの声」が集まり互いに編み込み合うことで、ものすごく複雑な関係になっていく。
西村 さらに足していいですか? 村上さんも書かれていたかもしれませんが、看護師はよく「患者さんがこうなっていました」(身振り)というふうに状況を「再現」しますよね。これも他者の状態を語り手の身体を介して再現しているので、身体性の編み込みが起こっていると言えます。そのため、身体性も考慮しないとそういう意味での理解につながらないと思うのです。
村上 同じことを考えているのかどうかわからないですが、そこは僕としては「リズムの多様性」という見方が合っている。最近すごく意識をしているポリフォニーもそうだけど、ポリリズム、つまりいろいろなリズムとスピードの事象を看護師さんは同時に引き受けていて、そのリズムの中で一瞬の調和を見いだそうとしているように思います。
榊原 西村さん、村上さん、どうもありがとうございました。お二人にお互いの仕事について語っていただいたことで、お二人のお仕事のいわば「共通する要素と異なる要素」とが際立ってきて、私たちのこれからの「医療現象学」研究プロジェクトに向けての、いくつかの「視点」が得られたと思います。
(「質疑応答」へつづく)
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