対 談

ケアの現場から立ち上げる現象学 西村ユミ ✕ 村上靖彦 科研費「医療現象学の新たな構築」第1回研究会より

ディスカッション 前編   page 2

村上 もうひとつ、西村さんはご著書の中で「私にとっては、経験を聴き取る方法であるよりもむしろ、共同して看護実践や経験を言語化する創造的な取り組みだった」と書かれています(『看護実践の語り』p.vi「はじめに」)。つまりすでに出来上がった経験をめぐる言葉を聞き取るのではなく、その場でつくり出すことを強調しておられますね。これについて説明をしていただけませんか。

 

西村 まず「引っかかり」という言葉は、この研究をし始めたころに、参加をされた看護師さんたちがくり返し語っていたのです。他に「心残り」などいくつかの語り方があったのですが、集約するとこの言葉に落着くようになりました。この「引っかかり」をもった経験を語りながらもやがてそれが取り除かれていく瞬間が、グループインタビューや個別インタビューの中でたびたび起こったのです。

 

その場で話しながら経験の意味がどんどん変わっていく。じわりじわりと、あるいは飛躍的に変化することもあります。たとえばマンツーマンで話しているときは、私の質問に答えながら自分が語った言葉に触発されて「今思えばこうだった」とか「そういえば…」というふうに、どんどん経験の意味や理解を変えていくのです。

 

語り合いながら新たに経験の意味をつくり変えていく。それも他者に問われなければ語り始めなかった事柄の中でそれは起こっているのです。もう一つは、はっきり自覚していないけれどもいつもすでにしてしまっていること、例えば「駒に追いつくように動くんです」とか「映像に追いつくように動いているんです」とか、自分たちが実践を主体的に駆動していくだけではなく、その先に今から知ろうとしていることが見えてきてしまう、その見えてみてしまうことに追いつこうとして動くらしいのです。こうした、語りの中で生まれてきた言葉から、実践の先取りというものがすごくよく見えたのですね。

 

これから患者さんの状態がどのように変化するかがパッと見ればわかってしまう、未来まで見えてしまっている事柄に対してケアをしていく、そのケアが未来を変えていく…。それらに追いつくように実践をするらしいのです。これが「駒に追いつくように動く」という表現で語られるわけです。そしてこれは看護師さんがたが予めもっていた表現ではなく、インタビューの中で生まれた新しい言葉なのです。私があえて「定義をしない」と言った理由は、インタビューという対話の中にこそ、私たちが思ってもみなかった事柄、その表現が生み出されてくる可能性があるからなのです。

 

 

方法の多様性をさぐる

 

村上 今のお話はインタビューを使って研究をする場合のすごく大事なポイントだと思います。言葉と実践あるいは身体が共同的に連動していること、つまり言葉にしていくことと体が動くということ、そして状況がつくられるということが、いずれも同時に起こっている一つの現象の異なる側面であるおかげで、僕らみたいな研究ができるのだから。そこで重要なのは方法の多様性ではないでしょうか。僕らはさまざまな現場ごとにそのつど方法をつくっていかなければなりません。しかしそれをどこまでやってよいのか、何を基本的なラインとして守っていかなければいけないでしょうか。

 

西村 方法をつくることの基本的なラインですが、やはり現象学的な研究ですので、事象の特徴を歪めないよう、事象に即した方法をデザインするほかないのではないでしょうか。その際、研究者と事象との関係も、吟味する必要があると思います。村上さんであれば看護の専門家でないからこそ接近できる方法がありますし、私であれば看護職だからこそ予めもっている先入見に気づくことが求められます。それは、私にとっても難しいことなんですが、フィールドワークを通して気づかされることもあります。

 

実際に私が取り組んだ方法ですが、拙著では方法に関する2種類の方向性を提案しています。一つは、現象学的研究の方法論に関する書物のほとんどが、インタビューによって個別の経験を深く掘り下げていくことを紹介しています。もちろん、すでに議論してきたとおり、個別のインタビューはとても有効な方法です。しかし同時に、研究者が現場に身を置き、自身の身体性を生かして調査をする方法も実践の生成や構造を浮かび上がらせるのに有効だと思うので、現象学的研究でももっとフィールドワークすることを勧めたいですね。さらにグループインタビューという手法も諸学者にとって大きな意味を持つ方法じゃないかと思います。いずれも、研究目的や現場の特徴によって方法もデザインし直す、つまり具体的な調査の仕方はつくられるわけですが。

 

もう一つは、同じ研究の中で複数の分析方法を採用することがあってもいいのではないかということ。拙著で取り上げた研究では、グループインタビューの前半は議論がどんどん弾み、参加者たちが自分たちの協働実践と現場の実際とを往復しながら言葉にしていく作業を行い、後半は、引っかかりを残した患者とのかかわりの経験を捉え直す作業が中心でした。その中で、最近起こったばかりで未決着の出来事も話し合われました。私には、この後半の現在進行形の語りの分析が、10年間くらいうまくできませんでした。これまでの自分のスタイルではどうしても分析できない。でも、現在進行形で起こっていることにはそれ独特の分析スタイルがあるのではないか、と最近気づいたのです。

 

それは『看護実践の語り』の第6章「引っかかりから多様性へ」に書いています(p.157)。がんの末期で疼痛コントロールがうまくいかないまま退院されたという、つい最近経験したある患者さんとの出来事について、BさんとFさんが振り返って語ってくれました。悩んだ結果、この語りは他の語りとは明らかに違う水準で分析することになったのです。

 

村上 何がどう違ったのですか?

 

西村 語り手が自分の経験の意味をほとんど自覚的に理解していない、まだ経験としてのまとまりを持っていない語りだったのです。一昨日に起きたことで皆「退院しちゃって、患者さん大丈夫かしら...」と進行形の事態として話していたので、その場でナースたちが「あれってこういうことだったんじゃないか」というふうにその場でどんどん理解をし直していく。自分が何にこだわっていたのかをインタビューの語りの中で気づき、相手のこだわりも認めながら「そこは譲らない」というような語りだったのです。

 

つまり、インタビューという対話の場でお互いの言葉に触発されながら自分のこだわりの意味に気づき、同時に相手がしていたことや考えていたことも知ることができて、納得のいかないところもあるけど、一人の患者への看護に対する考え方として両方があってもいいんじゃないか、と。そしてこの語りの分析を進める中で、メルロ=ポンティの「側面的普遍」という言葉に出会い直したような感覚になりました。

 

村上 なるほど。要するに西村さんがするはずだった分析のポイントを探るプロセスを、本人たちがしてしまったということですね。

 

西村 そうですね。

「ディスカッション 後編」へつづく)

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