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連載 ── 考えること、学ぶこと。 "共愉"の世界〜震災後2.0 香川 秀太 profile
後篇/第10回 "Post-COVID-19 Society" グローバル資本主義のあとに生まれるもの 「おわりに」

連載のはじめに

 

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人間は自ら欲求を創造することができる存在です。

 

例えば……

カッコよさや美しさ(髪型、ファッション、車など)

快適な生活(家電、家具、住居など)

承認欲求(ネット上の「いいね」やフォロアー数など)

万物との交換を可能にする貨幣獲得欲求

 

これらは、人間自身が生み出した欲求です。資本主義は、いかに「新たな欲望を喚起できるか」の競争社会であるとも言い換えられます。「ほら、こんなに魅力ある商品ですよ」「これがあなたにとって必要なものですよ」と新たな欲望を生み出していく過程です。皮肉にも、コロナ問題で政府が通達した「不要不急の外出を控える」という言説は、生存にとっては「不要不急」に相当するかもしれない欲望を、むしろ積極的に喚起することで拡張してきた資本制との自己矛盾を象徴するような言説でもあります。

 

対して、動物は動物自身の手で新たな欲望を作り出すことは難しい。しかしながら、「人間が自らの欲望を創る」ということは、自ら欲望を「変える」こともできるということです。動物が新しい欲望を得るには進化ないし種の分岐をまたねばなりませんが、人間は文明をかえることができます。自らの欲望の中心を、貨幣の獲得とは違うものに変えることができるかもしれない。これが、ホモサピエンスに与えられた自由と言えるかもしれません。自由経済を進めることだけが人間の自由ではない。

 

この言い方は、ANTからすれば、人間中心の見方だということになるかもしれません。しかし、人が貨幣中心主義を脱すること、地球とのかかわり方(欲望のシステム)を問い直していくということは、むしろ人間中心主義を転換させていくことなのです。

 

思い切って、人間の経済的利益を中心に置かず、さりとて人間がこれまで築いた文明を全否定せず、むしろその地位や矛先を徐々に転換させていきながら、他の生物や無生物といった特異なアクターらと交歓関係を形成していく。そのような方向性に向かうことはできないでしょうか。

 

人間中心の見方から離れてみるなら、そもそも自然とは、特定の種による独占を嫌う傾向があり、(同種以外に)天敵不在で増えすぎてしまう人類を減らすための措置こそが感染症だという議論もあります。

 

「生物多様性こそが地球上における38億年にわたる生命の継続をもたらしてきたのであるから、たとえ「万物の霊長である」(と自称しているだけ)ヒトといえども、特定の主だけが限度を超えて反映することは、他のすべての生き物にとって、生死にかかわる重要な問題なのである。そこで、自然界は、最も「原始的」な生物であるウイルスやバクテリアというものを利用して、この食物連鎖の頂点に立つヒトという種の在庫調整を行うようになったのである。」(三宅、2002)

 

このような主張は、80-90年代の有名な漫画「寄生獣」を思い出させます。SF好きな私も中高生の時に何度も読んだ漫画です。そこでは「人間の数が半分になったら燃やされる森の数も半分で済むのだろうか」というある種達観した問い(台詞)が示されています。

 

新型コロナの感染症によって、科学が追い付かない、経済が破たんする、人間の文化や秩序が成り立たなくなる。これらは全て「人間社会」のことです。他方でそれによって空気汚染は減った。人類は悲しむが自然や他種は生き生きするかもしれない。であれば、人間は不要ということなのか。そのような考えは説得力を持ちます。

 

しかし、「それは違う」と、日本独自の歴史性をふまえつつ、人と自然との共生生活を実践するパーマカルチャーのパイオニアの設楽清和氏ははっきりと言います。

 

人間悲観主義も人間中心主義もとらないとするならば、人類と自然とがより良い形で交わる関係性を創ることが必要と思われます。「生きること」だけでなく、他の生物に学びながら、「死」に対する見方も変える必要が出てくるかもしれない。それは、古典的な宗教の考えが哲学としてヒントを与えてくれるでしょうし、宗教に代わる新しい何かを我々は生んでいく必要もあるのかもしれない。そして、日々の日常にこそ、その芽は隠されています。

 

人びとが共通してもつ、愛するものを育てたいという愛の力能。他者(自分ではないもの)でありながらも自分の延長線上にあるもの。苦悩がありながらも歓びが勝るもの。それを地球、あるいは、人(自己)と自然(他者)の関係性(交わり、交歓)に転化していくことはできないでしょうか。それが人間らしくありつつも、人間中心主義に陥らない道かもしれません。

 

経済や科学を主役にするのではなく、つまり、人間の力を誇示するための道具を生産するのではなく(結果、経済発展も科学の発展も目的化してしまいます)、むしろ、地球(他の生命・無生物)との交歓を主軸に置き、その<共>を生み出す特異性のひとつとして、経済も科学も位置付け直していくこと。

 

前篇の冒頭で述べたことに立ち返れば、人間自らが生んだ貨幣システムが人間の力を凌駕する存在に成長したのなら、同じく人間を凌駕する存在である地球とは、人間を生み出した父母のような存在でありながらも、人間が他の生物/非生物とともに生み出していく子のような存在といえるかもしれません。地球を主軸とするということは、人間中心主義も脱人間中心主義も脱していくことを意味します。

 

このような方向性の探索では、ANTも含め、マルクスの理論に影響を受けそこから発展した、複数の関係諸論を結び合わせていくことになります。交歓は、概念や社会の進化や成果を訴えるための言説としての「先にある新しいもの」でも「何かの発展や拡張」でもなく、むしろ結び合わせる中核の動きそのものなのです。

 

 

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連載のはじめに

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会   (C) 2020 Japanese Nursing Association Publishing Company.

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