連載 ── 考えること、学ぶこと。 "共愉"の世界〜震災後2.0 香川 秀太 profile

image: Center for Disease Control and Prevention

後篇/第8回 "Post-COVID-19 Society" グローバル資本主義のあとに生まれるもの 「世界共和国へ、あるいは……」

連載のはじめに

 

   

 

ごく身近な例で言えば、私は、普段は車で通っている路を、緊急事態宣言中、運動もかねて人の少ない夜中に散歩してみました。徒歩の分、進むスピードは普段よりはるかにゆっくりですが、それによって、普段見えない景色が見え、小さな気づきがたくさんあり、その喜び、愉しさを感じることができました。

 

路は、いつものような、単なる通り道、通過点、あるいは移動の手段ではなくなり、愉しむ対象となりました。細い脇道にもあえてそれてみたくなりました。それまで、自分がよく知っていると思っていた路のことを、あまりにもよく知ってはいなかったことを知りました。このことは私にとって思いがけないことでした。

 

瞑想してみること、経済と距離をとってみること、そこまでではなくとも、あえてゆっくりと回してみること、それを今までとは段違いの規模で(世界同時的に)行うことで、思いがけないことが起こっていくかもしれません※注

 

例えば、4・5月の緊急事態宣言を通して、経済的な困窮者や生活のリズムが崩れる人が増える一方で、家族との時間を過ごせることに幸せを感じた人も増えたと言われました。それ以外にも、奇しくも、会社が危機になり、仕事が減ることで、自分のせいではなく働かなくてすむようになったことに、むしろ安心するようになった、という感情を持った方すらいるそうです(東洋経済、2020年5月21日記事より)。この例に限らず、コロナ問題を契機に、働くことの前提を見直すような人が次々に出現していっても不思議ではありません。

 

そして、もしこの「(ローカルに)交流しないこと、距離をとることの(グローバルな能動的)連帯」という逆説的な試みが成功したならば、莫大なリスクとともに、たとえ一時的であっても、巨大な成功体験を人類は共創したことになります。新型コロナウイルス問題に限定されない、現代のグローバルな問題を乗り越えうる、国や民族を超えた連帯のエネルギーの創出です。

 

もちろん、「with コロナ」と言われるような対策も少しずつ進んでおり、ワクチン開発の競争が世界的に行われ、コロナ問題を科学の力で乗り越える幾つかの希望も出現しています。それらが進めば、ますます馬鹿げた提案となり、このような可能性は減っていくでしょう。

 

また、この「全世界同時の経済停止」という方策も当然にしてさまざまな現実的危うさを抱えています。どう国際規模でそれが徹底できるのか、監視の徹底なのか、その間の補償はまた各国が補うのか。経済的体力のない国は無理ではないか。

 

しかしながら、国や地域を越え、企業を越え、学術的な専門分野を越えて、富める国やグローバル企業、効果的な対策方法を編み出した国や地域や研究者らが、ノウハウやお金を国際的、学際的にシェアしていくような連帯の拡張によって、この課題を乗り越えていくこともできるかもしれない。変異が激しすぎて、ワクチン開発がおいつかないとなれば、荒唐無稽なこの「世界同時的な経済停止」という選択肢も現実味を帯びてきます。もしくは、これに限らず、何らかの形で国際的な対応、協働、連帯が生成される可能性があります※注

 

言い換えれば、世界規模の再分配(経済のシェア)やコモンが生まれていく可能性です。

 

その萌芽は、すでに学術領域で出現しています。専門分化していた人たちの間で、次のマルチチュードで述べるような、対コロナという共通の関心=<共(the common)>のもと、専門分野の特異性同士が結合するような学際活動が活性化しているのです──ただし、まだそれは対コロナの問題解決という<共>にとどまっているという点で、限界もあります──。

 

むろん、このような方法によって、今回の新型コロナの封じ込めに成功したとしても、一時的な見かけの連帯に過ぎないかもしれません。根や幹は共有できず、利害関係の共有によって表面上、束の間に結合しただけ。ほうっておけば、すぐに元の関係に戻ろうとするでしょう。しかし、その瞬間こそ、我々はコロナ問題を乗り越えた先の、グローバルな連帯のエネルギーを加速させていく、めったにない「転機のチャンス」ともいえます。一度経験した(現実にした)連帯の芽は、かつてないほどの可能性を生みます。

 

もしくは、世界一斉にではなくとも、長期的に在宅勤務が続いたり、経済循環が崩れて仕事が成立しないことが続けば、世界のあちこちで、「そもそもなぜ働くのか」、「経済を回さないと生きていけない仕組みとはいったい何なのか」など、経済循環の歯車として働く事に疑問を感じる人が増えていくかもしれません。

 

事実、日本では、リーマンショックや東日本大震災後に、経済とのかかわりを弱めつつも、よりポジティブな感情を生むことのできる生活スタイルにシフトチェンジする人たち、チャレンジする人たちが登場していきました。震災に加えて、今回のコロナ問題を通してさらに新たに生まれていくであろう、小さな試みが加速し、大きな変化を生んでいく可能性もあります。

 

あるいは、ここまでドラスティックな連帯の発生でなくとも、ワクチンや薬、その開発のノウハウや権利や知識を、各国や開発企業や研究機関がその境界内に囲い込むことなく、全世界共通で取り組むべき課題とみなして、非常に積極的に共有しながら、国や企業の利益の枠組みを超えて開発していったとすれば、これもまた、新しい国際的連帯の萌芽となる可能性があります。

 

以上の方法を組み合わせて、一方で、ウイルスの変異の速いスピードに対抗すべく、世界同時的な経済停止によってウイルスの拡がりと変異の速度を鈍らせ、他方で、国際的連帯を強めてワクチン開発を加速させ、開発されたものの流布を早めるという、両方の連帯を同時に図っていくこともありえます。

 

つまり、それまで特定の国や企業や個人に囲い込んでいた経済、科学知識を、全世界が共有していく動きです。

 

国連やWHOといった国際機関、G7のような先進国、新興国も含めたG20、いずれかのリーダーシップか、それらが連動して実践されていく可能性がかなり現れてきています。実際、2020年5月19日にG7がコロナの治療薬やワクチンの国際的な普及の仕組みづくりを前向きに検討することが報道されました。他方で、5月1日、同じくG7は、中国勢による企業買収への警戒心を強め、規制強化が検討されていることも報道されました。まさに、連帯と分断との複数の可能性がせめぎ合っている様子がうかがえます。

 

二者択一的に、連帯か分断かどちらかを選択することはないでしょうが(片方を全くゼロにすることもできませんから)、どちらの「傾向」に力を入れ、主要化させていくかが肝であると言えます。当然、連帯の方により力を入れることが望まれます。

 

ただし、連帯するにしても特定国(先進国、経済力のある国)が、他国への人道支援や一方向的な贈与のつもりで進めてしまうとこれまでの流れと大きくは変わりません。一方から他方への贈与は、人道主義を名目とした過去の植民地侵略やWHOで起きた問題のように、特定の国の発言権の強化など、負債による主従関係や、特定国の権力強化をかえって促すからです(それを目的として、ある国家が意図的に贈与を行う可能性があります)。

 

よって、むしろ、支援や贈与というよりも、自国保護にもつながる試みとしても行っていく必要があるでしょうし、そうならざるを得ないはずです。もしくは、自国、他国の境界など無関係な「ボーダーレスな問題」としてコロナ感染症を位置づけていくることも大切です。

 

強い感染力を持つ新型コロナウイルスという非人間的対象物は、その可能性を提供します。他国のリスクが自国のリスクにつながるから、自分事としても考えやすいのです。すなわち、グローバル資本主義が急速に拡大させたリスクを、グローバルな連帯へと変更させていく。グローバル資本主義からグローバル・アソシエ―ショニズム(世界共和国)への転換です。

 

この連帯の萌芽を育て、従来の「自国のため」のため、あるいは「その逆の他国への贈与(支援)のため」という名目から、国境や経済的利害関係を超えた「関係性(地球意識)」の涵養へとのシフトが起きていけば、単に「コロナ問題の解決」という枠を越えた、次なる世界システムの創出につなげていくことができるかもしれません。

 

逆に、ワクチンや薬の国際的なシェアだけでは、やはりまだ、共通の利害関係による一時的な協力にとどまってしまいます。つまり、これまでの経済循環の足かせになっているコロナ感染症を解決し、早く従来の消費主義に戻したいがゆえに、国際的な協力体制を一時的にとるにとどまってしまいます。

 

よって、このコロナ感染症に関する国際的協力そのものは利害関係が中心であったとしても、このことを、これから消費主義を持続的に乗り越えていくための、次のステップ(ポスト資本主義社会)──資本制とポスト資本制との間のを踏むための「境界領域(既述のZAD)」ないし「グレーゾーン」──として積極的に位置づけていく必要があります。歴史的転換は急にAからBに代わるのではなくむしろ、前の歴史をふまえながら徐々に進むものだからです。

 

例えば、コロナ問題への国際的取り組みをまずは契機として、さらにその後、あるいはコロナ感染症と並行して、他の国際的問題を乗り越えるのに、途上国も含めて、各国が可能なことを提供していくような関係づくりをもっと意識的に行っていく。この時、科学的知識の提供だけでは、どうしても先進国や経済力のある国が中心になりがちですから、それ以外の領域も含めた連帯の在り方を探り続ける必要があります。

 

例えば、自然との共生志向がまだ残っている途上国ならではの特異性を提供してもらう。欧米の見方とは異なる視点を提供してもらう。西欧主義とは異なる視点を提供してもらう。歴史を見直し、共にどう立ち向かうか考え、行動する。経済的ヒエラルキー、科学技術的ヒエラルキーを自明視せず、支援-被支援の上下関係を乗り越えていく。このように、コロナ問題を、過去の「侵略(植民地支配)のための科学」という地位や歴史も、乗り越えていく契機として活用していくのです。

 

基本的に、途上国にしても、引きこもりにしても、障がい者にしても、弱い立場に置かれているとされる方たちは、あくまで、人間が社会的に作った尺度(経済力であったり、狡猾な交渉力であったり)に照らして、弱者なのであって、尺度や見方を変えれば、違う力や可能性を持ちうる存在です。

 

例えば、非常に繊細でピュアで不器用であるがゆえに、引きこもったのだとすれば、それをネガティブなものとする社会システムが本当に良いシステムなのか。むしろそのピュアな力こそ、次の社会に必要かもしれません。よく知られるように、障がい者の中には、しばしば、とびぬけた才能を見せて活躍する人もいます。ただし、それも機会や場があって初めて可能になります。そのような場づくりは地域の各地で試みられています(例えば、以前より、仕事づくりとコミュニティ形成とを同時に試みてきた、日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)の活動)。

 

同じことを国家間の関係においてもでもやればいいのです。(マクロな国家間関係も、ミクロでローカルな日常生活も、類似した構造は多々あり、同じ延長線上にあります)。このような常識的尺度からの離脱や転換をしていくことで、強者からの搾取、あるいは支援・贈与のような従来の関係が変わり、地殻変動へ向けての動きが広がっていく可能性があります。

 

下記のハート&ネグリは、アメリカが国際的なリーダーの役割を担わなくなる中、どの国が次の覇権(ヘゲモニー)を握るのかという帝国主義自体が終焉しているということを主張しています。

 

そうであれば、これからは、上記のような形で、どの国もそれぞれの特異性やエージェンシーを発揮していくような国家間の関係形成を促し調整していく、ファシリテーターの役割を担う国が、新しいリーダーシップの在り方として望まれてきます。それも必ずしも、これまでのように、経済力と軍事力を持つ国が担う必要は(本来)ないのです。むしろ、優れた「人格国」こそ、新たなリーダーシップを発揮できる関係性や仕組みを作るべきです。もしくは、ファシリテーターも一国である必要はなく、複数国共同でその役割を担う、或いは全員がファシリテーターになっていけばいい。

 

このように、コロナ問題は、良い意味での新たな国際関係やグローバルな仕組みを構築する、めったにないチャンスです。

 

もし何らかの理由(変異のスピードに追い付かないなど)で効果的なワクチンが開発できないという事態が起きた場合、つまり、科学の限界が生じるなら、それは非常に嫌なこと、恐ろしいことではありますが、むしろこうしたいっそうの連帯の機会の到来かもしれません。それは、現在の科学信奉を見直す機会になりますし、薬やワクチン(西欧近代主義的な科学)のみに頼れない以上、別の方策を考える必要性にいっそう迫られるからです。国際的窮地が、国際的連帯をもたらす可能性があるということです。

 

つまり、一方で科学の限界を自覚しつつ、他方で感染を拡げないための他の科学的知見に基づく具体的な対策や仕組みを自然に対して謙虚に活用・共有しながら、科学の限界の分、社会的連帯の力を発達させていくことで、問題を国際的に乗り越えていくという道です。

 

一つこの身近なモデルを示せば、同じ科学、学術の議論の中で、質的研究の勃興が、それまでの数量研究信奉を打ち破ったことがあげられます。これは、これまでの客観主義的な自然科学の発想とは別の科学観を醸成していくことにつながりました。

 

そう、質的研究は、自然(外的環境)と人間とを真っ二つにする従来の科学実証主義的な発想を打ち破りました。同じく、科学的知見や開発を国際的に共有していく連帯の動き、すなわち、自然科学と政治経済とを良い意味で結合させていく動きは、自然科学と政治経済とを、あるいは非人間と人間とを真っ二つにしてきた、それまでの欧米的近代主義を乗り越えていくことにつながるものといえそうです。

 

これはまさしく、既述の「科学と政治経済は不分離であるという前提を表立って認めた上で、科学をどのような観点から社会的に位置づけていくかをもっと積極的に考えていく方がより建設的ではないか」という問いの答えに相当してきます。

 

ここまでの出来事がすぐには起こらなくとも、あちこちの地域や国で、あるいは国や民族を超えて小さな連帯の可能性(萌芽)は必ず起きていくでしょう──コロナ問題以前から、その動きはすでにあったのですから──。その芽を国家や領域の枠を越えてしっかりとつかみ取り、育てていくか否かがこれから問われていきます。コロナ問題は、グローバルな共通体験だからこそ、私たちには普段以上にその芽を育てる可能性やチャンスが広がっています。

 

以上の第一と第二の可能性を結び合わせれば、新型コロナによる「世界同時的な経済成長の放棄(一時的減退)」という大損害が、「人間と人間との関係性」と同時に「人間と自然との関係性」の見直しを促す。国家の枠を越えた人間同士の連帯、人と自然との共生関係の発達を主要化していく動きです。前篇で述べた通り、資本主義による経済中心主義は、周辺と中心という格差を生み、人間同士の互助と、人と自然の共生を衰退させていったわけですから、ここで述べた方向性は、従来とは異なるもう一つの世界の可能性といえるものです。

 

繰り返しになりますが、種にしろ萌芽にしろ、それらは常にか弱いものです。か弱いが力強い可能性を持つものです。その種に適った土選び、支柱、日当たり、水の量、剪定などの条件を整え、ある時には手を施し、別の時には水や養分を与えたり、剪定しすぎたりはせず、見守っていく必要があります。

 

人間で言えば「赤子」です。これを、さまざまな苦労があろうとも、皆で共同で養育していくか否かという岐路に私たちは立っています。

 

生み、育てるということは、さまざまな現実に直面し、とても大変です。しかし、子育てを通して現に人はそれをやってきたわけで、すでにその可能性を私たちは共有しています。グローバルな感染の危機が、結局は、身近な自分自身だけでなく子への危機につながるならば、むしろその逆に、私たちのごく身近な子への関わり方を、地球意識に発展させていくことは不可能ではないはずです。

 

徐々に選択の幅が狭まり、にっちもさっちもいかない、今よりもっと深刻なダブルバインドに陥る前に、私たちは、どのような社会形成をのぞむのかを考え、手を打っていく必要があります。前向きな選択の方が、人々はより活力をもって苦境にのぞむことができるはずです。

 

それでは、どのような社会形成をすすめていくべきか、これまで主流の近代主義や資本主義の見直しを提言してきた、ラトゥール、ネグリ&ハート、マルクス&エンゲルスらの議論をヒントに見ていきましょう。

第9回へ続く)

 

   

 

連載のはじめに

※注:この方向性もまた,コロナ問題以前から既に育てられていたものである。例えば,人類学者の辻信一やエコロジー活動家のサティシュ・クマール(上野ら,2018)が提唱する「スローライフ,スモールライフ,シンプルライフ」や,後述のトランスパーソナル心理学のマズロー(1986)の考えである。彼らは,近現代の「生産や成長を良し」とする世界観に馴染んだ,新しいものに/を「成る(becoming)」/「作る」よりも(あるいは,それだけでなく),「いる・ある(being)」「気付く」ことの重要性を説く。

※注:6月16日追記:黒人差別反対運動のアメリカを超えた拡がりは、コロナの感染拡大のリスクを伴うものである一方で、この種の国際的連帯に数えられるものといえる。

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会   (C) 2020 Japanese Nursing Association Publishing Company.

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