image: Center for Disease Control and Prevention

連載 ── 考えること、学ぶこと。 "共愉"の世界〜震災後2.0 香川 秀太 profile
後篇/第7回 "Post-COVID-19 Society" グローバル資本主義のあとに生まれるもの 「資本主義とポスト資本主義の グレーゾーンを問う」

連載のはじめに

 

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「科学技術と経済の発展」こそ正義

 

人類の経済活動を脅かすウイルス。これに対して人類は、既述の通り、「科学技術の開発により自然を統制」し、「経済発展を取り戻す」方向に動く可能性が今のところ最も高いと思われます。そこに、人の貧困・孤立化や環境問題といった「社会課題の解決」を目指す、NPOや社会起業家、サードセクター等の民間事業がいっそう参入していくでしょう。

 

経済をメインにするのか、社会課題をメインにするのか、それともその両輪なのか。コロナ問題以前から、「今は経済中心の社会だが、今後は、社会課題の方にも軸足を置き、両輪とすべきだ」という方向性はすでに示されていました(がまだ不十分でした)──例えば、仮想と現実空間の融合により経済発展と社会課題解決を両立させようという内閣府の政策「Society 5.0」の構想はこの両輪を主張しています──。

 

これに照らせば、前篇で述べた複数の方向性は、技術革新と経済的利潤に軸足を置く資本主義の継承ないし促進であり、その時、社会課題と経済との両輪を回すべく民間活力をいっそう促して新自由主義的に進めるのか、あるいは、民間と手を取りながらも税負担を重くする分、手厚い社会保障を国家が施していくような福祉国家的な方向性を強めていくのかという方向性の違いとして言い換えられます。もしくは、多くの労働者や業界にとって厳しい状況になれば、もはや自由経済どころではないとし、社会主義的に、国家の権限をかなり強めて公正な再分配を行うという方向性もあるかもしれません。

 

もし、多くの国や地域や分野で、経済減退による給与の減少が長期化し、貧困層が膨れ上がり、相対的貧困どころか絶対的貧困にまで及び、そこに別の感染症や自然災害などの諸問題が重なり、事態がますます深刻化していくようなことがあれば、国債の発行ではまかなえきれなくなり、まだ生活が可能な人たちや富裕層からお金を困窮層にいっそう共有していかざるをえない流れが生まれていく可能性があります。放置すれば、ホームレスが増えたり、自殺者が増えたり、治安が悪化したり、それでますます感染症の抑制が困難になっていく可能性もあります。

 

よって、このまま資本主義をベースとし、ある程度の差は許容しながらも、再分配の強化によって補っていくのか、思い切って(一時的な措置という名目で)社会主義に近い公正な再分配に向かうのか、あるいは格差をやむを得ない犠牲と考え国は大きな手は出さないのか、選択に迫られるかもしれません。いずれかということではないなら、ある意味で日本文化らしく、それら異なる主義をパッチワーク的につなぎあわせていくような選択肢もありうるかもしれません。

 

ちなみに、前篇の地域包括ケアの記述にて部分的に触れた通り、NPOや社会的企業も、民間に福祉やケアを任せていく仕組みであり、その活動範囲の拡大は新自由主義と結びついているといわれています。他方で、そもそも孤立や貧困や環境問題という課題そのものを拡大したのが新自由主義ともいわれています。つまり、NPOや社会的企業の拡大とは、「新自由主義が生んだ課題を新自由主義的に解決しようとする流れ」ともいえます。

 

これは、「営利と非営利の間の矛盾」とも言い換えられます。例えば、NPOは非営利でありながらも、補助金の確保に加え、活動継続やスタッフの生活のためには直接的な収益も上げる必要があり、これに四苦八苦する非営利組織は少なくありません。端的に言えば、非営利や互助や善意の活動であるのに、「はい、おいくらです」と直接お金を要求することの難しさです(この点で、社会「企業」の形態をとったほうが収益の面で進めやすい・理解を得やすいと考える活動家もいらっしゃいます)。NPOや社会企業同士もまた、似たサービスを提供し合う組織同士は、競合関係にもなりえますし、多様な人達との協力を表では掲げる一方で自らの活動領域の確保や承認欲求をめぐる競争や競合競争もあるように思います。

 

当事者のNPOの方たちは、社会課題を何とかしたいという思いを主として活動を進める一方で、他にはない新奇でより良いサービスを生むことで、収益も確保しながら生き残っていく市場原理にもさらされます。ある程度うまく両者を調整できる場合もあれば,両立をめぐって葛藤が生じる場合もあります。営利と非営利との間、補助金に伴う官僚主義的な仕組みと自由な活動との間、資金獲得と互助的共創関係との間、これらの間の葛藤に直面し、その調整の必要性に迫られるのです。

 

NPOや社会企業に限定される話ではなく、任意団体や企業の社会貢献にも言えることですが、外向けの看板と内部での実態との間で乖離が生じてしまうケースもみられます。対外的にはオープンかつフラットで、既存の常識の枠組みを打ち破っていく社会形成の必要性を謳いながらも、内部の組織では上下階層が強かったり、常識的な規範に捉われ続けてしまったり、内部での競争や抗争や足の引っ張り合いが起きて分断が進んでいってしまったりするケース、事業が軌道に乗るにつれて次第に営利ビジネスの側面の方が強まっていき、原点から離れていってしまうケースなどです。

 

あるいは、組織内の集団凝集性が高まり、その組織のコンセプトを皆が次第に盲信するようになってしまい(その組織の内部ではそれが「常識」となり)、組織内の多様性が失われ、異なる声や省察を促す声を許容する寛容性が失われ、次第に風通しの悪い集団になってしまうこともあるように思います。

 

もちろん、人間同士でやることですから、自然に起こりうる問題でもありますが、対外的な活動や成果を出すことに一生懸命になるあまり、(ある種、成果として目立ちにくい)内部の組織の在り方には目を向けにくい状況が起きてしまうのかもしれません。医者の不養生のごとく、人間誰しも、外に対しては言いやすいが、自らには目を向けにくいものです。

 

しかしながら、もちろん、NPOや社会企業が従来の営利組織にはない、非常に多くの可能性を生んできたのも事実です──逆に、環境問題や震災などの社会課題の影響だけでなく、NPOや社会企業家側との交流や影響もあっても、営利企業側も以前に増して社会貢献的要素を強く意識するようになりました──。しかし、社会基盤そのものが資本主義経済であり、あくまでその土台の上で、NPOや社会企業を存続させようとする以上は、どうしても避け避け難いコンフリクトもあるように思います。

 

他方で、ローカルな人々の創意工夫や偶発性を通して、この矛盾を抜け出ていくようなポジティブな新しい可能性(まさに萌芽)もまた現に発生しており、非常に興味深いものです。ここでは多くは触れませんが、例えば、ビジネスマンらが営利的な仕事で培っていたビジネススキルや知識を活用して、無償でNPO等の活動を支援するプロボノ※注という活動の中でそれがクリアに現れています(藤澤・香川、印刷中)。資本主義社会の中で生まれる活動でありながら、資本主義の土台そのものを問い直し、揺さぶり、さらには、創りかえていくような萌芽もまた、このような「営利と非営利のグレーゾーン」を通して生まれているといえそうです。

 

こうした、従来の官僚主義、あるいは商業主義的な側面と、自由で共創的で互助的な試みとの間の葛藤や矛盾、あるいは重層性。そうした一見すると水と油に思えるような、異質なもの同士の交わりと複雑さから、さまざまな葛藤と共に、新しいものも生まれます。

 

このグレーゾーン、言い換えれば、「資本主義」と、そのオルタナティブとなりえる「新しい社会」との狭間で生まれる発達の領域(グローバルなシステムとローカルな個別具体的活動との間で生まれる新世界の萌芽)のことを、さしあたり、「ZAD(Zone of Associational Development)」と私は呼んでいます(香川、2019)。Aのアソシエーション(Association)は、柄谷行人ら、後述のマルクス哲学が模索する資本主義後の世界(アソシエーショニズム)に由来するものです。

 

やや専門的な話になりますが、このZADは、第一に、ロシアの発達心理学者ヴィゴツキー(1896-1934)が提唱する「最近接発達領域(ZPD;Zone of Proximal Development)※注と、第二にマルクス&エンゲルスの議論、第三に、彼らの理論を継承発展させている現代の理論家たちの諸議論、これらを結び合わせた概念です。

 

ヴィゴツキーは、マルクスの思想を心理学に応用した天才学者として知られており、有名なところで言えば、近年のアクティブラーニング、協同学習、学習科学等に多大な影響を及ぼしています。しかしながら、そこでは、資本主義を含む社会構造への問いかけは「主軸」にはなってきませんでした。社会構造や資本主義への問い直しなどの世界史的な議論は表舞台からは退けられて──ただし、実は通底はしているのですが──、学習や教育のような心理学的現象そのものに関心を向けているからです。

 

つまり、ヴィゴツキーないしそれ以降の学習発達の研究者は、「マルクスの心理学化」ないし「マルクスのヴィゴツキー化」を進めたといえます。看護教育の領域でも、一部で知られるようになっているレイヴ&ウェンガーの「正統的周辺参加論」やエンゲストロームの「拡張的学習論」といった状況論(香川、2011参照)の流派──主に1980年代後半~90年代に勃興──は、この系譜です。

 

これに対し、ZADのような関心は、むしろ「ヴィゴツキーのマルクス化」という、これまでの状況論の議論には欠けていた、(古くて)新しい流れを進めようとする概念です(香川、2018a参照)。このような方向性は、これまでのような学術領域間の分業体制や専門分化(例えば、心理学者は精神の問題だけ論じればよいという発想)を脱していくことにもなり、私のような心理学の学位を持つ者が、今回の原稿のような、心理学の専門外の社会情勢に関心を持つ理由にもなっています。

 

以上のように、コロナ問題が引き起こす諸矛盾やコンフリクトとは、「資本制とポスト資本制のグレーゾーン」を生み出すものであると解釈していくならば、前篇とは異なるもう一つの未来の可能性が取り出せます。

 

 

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連載のはじめに

※注:例えば,WEBデザイナーとコピーライターら異職種がチームを組んで,普段の仕事のスキルやノウハウを活用しながら,あるNPOのWEBサイトを無償で改良したりする。そこでは,異質な業界と触れ合う「愉しさ」や「驚き」といった感情が重視され,無償にもかかわらず,普段の(営利的な)仕事以上の成果を出したりすることもある。

※注:発達心理学の領域で主に使われる著名な概念。子どもが独力でできることと,独りでは不可能だが,大人ないし,より有能な他の子どもとの協同であればできることとの間の発達の領域のことを指す。後者は,いずれ独力でも可能になるため,その子どもの未来の発達した姿を示すものとされる。ヴィゴツキーのこの最近接領域(ZPD)のアイデアを継承発展させたものがZADである。「子ども」を「社会構造」に置き換え,資本主義(個体主義)とポスト資本主義(協同主義)の間のグレーゾーンで生じる未来の発達の姿(社会構造の未来の萌芽)を指し示す概念である。

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会   (C) 2020 Japanese Nursing Association Publishing Company.

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