連載 ── 考えること、学ぶこと。 "共愉"の世界〜震災後2.0 香川 秀太 profile

image: Center for Disease Control and Prevention

前篇/第5回 "Post-COVID-19 Society" グローバル資本主義のあとに生まれるもの 「逆のエネルギー/破壊を逃れた要素」

連載のはじめに

 

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「破壊を逃れた要素」

 

さて、これらの破壊を逃れられる要素もあります(ただし、これもまた新たな葛藤も生みます)。そしてそのような強みは、社会変化をこれからいっそう促していくと一般的に予想されています。いうまでもなくそれは「インターネット等の通信網を通した非対面的な繋がり」です。「物理的に集まること」がウイルスにより強く否定されるならば、「物理的に」集まらなければよいというわけです。

 

なお、先に、資本主義が発展させたグローバルな陸路・海路・空路の移動(人の交通や物流)をウイルスが破壊すると述べました。しかし、ウイルスはもう一つの路として人類が発展させていた「通信路」までをも破壊することはできません。これが、私たちの経済活動の「砦」になったといえます。

 

実際、以前から徐々に進んではいた在宅勤務やネットを通した教育の動きが、コロナ問題を否応なく機に急拡大しました。私の身近なところでいえば、大学の多くが、授業のオンライン化を進めました。この時、この変化を「コロナ問題以前から動き始めていた社会変化であって、その“促進”だ」と歓迎する(前向きにとらえようとする)声が一方であります。確かにそのような一面もあると思います。

 

ただしそれは、単なる「教育のオンライン化」以上の効果をもたらし得うることも指摘しておく必要があります。たとえば、長期化するほど、あるいは今後、今回のコロナウイルスと同規模(以上)の感染症が繰り返し流行するようであれば、都市圏の大学は、利便性の良い都心キャンパスの良さを生かしきれず、ただ費用のかかる場になってしまいます。学生はそもそもキャンパスに通う必要がないので、わざわざ家賃が高く、リスクの高い密集地帯の都心の大学を選ぶ理由がなくなります。

 

よって、「物理的な施設や場所」や利便性に依存しない、教育サービスが教育業界に現実に要求される、そうせざるをえなくなっていく可能性があります。オンライン授業においては、これまでキャンパスという、教職員にとっても学生にとっても互いをつなぐ強力な結節点となっていた「物理的なシンボル」が単なる「想像物」となってしまいます。

 

こうしたことを皆が経験していけば、特定の共同体への帰属意識など強める必要などない、もっと緩やかなもので良いし、複数の機関や分野にまたがって教育を多元的に受ける形の方がいい(年齢も20代以下中心ではなくもっと多年齢的で働きながらでもいい)とする議論もいっそう強まってくるでしょう。あるいは、むしろ、仮想空間であってもメンバーシップや帰属意識を強めるような工夫を施していくべきだと考える議論や考え方も出てくるでしょう。つまり、遠隔教育においても、考え方やコンセプトは分かれてくる(多様化してくる)と思われます。もちろん、逆もまたしかりで、物理的なキャンパスの良さがむしろ際立っていく可能性もあります。しかし、物理的キャンパスがあったとしても、遠隔教育の領域が今より広がっていくこと、その速度が速まることはほぼ確実でしょう。

 

お店や会社も同様です。高い家賃で店を出していても客が来なければ意味がないので、閉店せざるを得なくなり、代わりに安い家賃のところに移動する、あるいはそもそも出店というスタイルを辞める。オフィスも都市部に設置する意味がなくなれば、物理的なオフィスの規模を縮小したり、オフィスそのものをなくしたり、安いところに移動する企業や人たちも増えるでしょう。その動きは、都市圏優位の大学の勢力図にも関わってくるかもしれません。

 

さらに、そもそも大学や教育機関で学ぶ理由や意義が根本から問われるようになる可能性があります。遠隔教育では、学生たちの能動性がより求められることが多いため、学ぶことを疑問に思う機会が増える可能性があります。また、なぜ大学に行くのかを学生たちに聞けば、多くが「就職のため」と答えるわけですが、経済の構造が変わっていき、都市離れが進み、一括採用も崩れてくれば、その理由づけも弱まっていき、結果、教育業界の再編が進まざるを得なくなります。歓迎すべき点とそうでない点とが混在しながら再編は進むことでしょう。

 

音楽業界でかなり以前よりオンライン化の波は起きましたが、このように、教育はじめさまざまな領域でいっそう促進される可能性があります。福祉や医療の領域も、ロボット技術の開発がいっそう進み、次第に遠隔化されていく可能性が指摘されています。

 

経済活動だけでなく、コミュニティや互助活動もどんどん物理的な対面なしで行う工夫が施され、さまざまな仕組みや技術や取り組みが開発されていきそうです。なお、もともと、インターネット自体が、哲学者イリイチ(1973)が提唱した「共愉(コンヴィヴィアリティ)」の世界観に影響を受けて開発されていったという経緯が一部にはありますから、コミュニティとインターネットに関しては、そもそも親和性が高い関係にはあります。

 

こうして、教育も経済も福祉もコミュニティも、徐々にオンライン生活やロボット化の体制が整い、それに馴染む人が増えていけば、首都圏や都会に集中していた経済が、地方により分散していく可能性があります。

 

東京一極集中、ないし地方であっても都市部集中の問題が叫ばれてきた中、これは確かに良い点もあります。しかし、その移行過程では、とりわけ、これまでの都心での生活スタイルを前提としていた多くの人たちの間で、あるいは、それを受け入れる地方でも、多くの混乱や既得権益の崩壊が起こることが予想されます。地価や資産価値の変動も起こるかもしれない。新しい技術に乗り遅れてしまったり、ついていけない人たちも出てくるでしょう。それが新たな孤立を生んでしまうかもしれません。

 

もちろん、社会変化にとって混乱はつきものだと切って捨てる人も出てくるでしょうが、現実にはそこに苦しむ人たちや思わぬ苦難も出てくるはずです。よって、これを緩和する方法を考えていく必要があると思われます。

 

ちなみに、新しい文化に馴染む過程で、これまで馴染んでいた古い文化とのさまざまなコンフリクト(葛藤)が生じることは、心理学の学習論では、「越境」という概念で議論されてきました(香川・青山、2015参照)。越境論の場合は、研修から仕事の実践への移行とか、違う職場文化をもつ人たち同士の接触だとかが主な研究対象とされてきたので、一見無関係です。しかし、コロナ問題に伴う、オンライン文化の導入は、まさに、これまで馴染んだ文化と新しい文化との間の「葛藤」を生じさせる点では類似性があります。

 

越境論から言えば、この葛藤によって生じる道は大きく三種類あり、1)新しいものが古いものを飲み込む方向性、2)古いものの力が勝り新しいものが拒否される方向、3)新しいものと古いものとをハイブリッド化していく方向性とがあります。1)は古い世代やそのやり方を排除しますので、結構な軋轢を伴います。2)は新しいものをあまり生みません。3)はさらに色々パターンがあるのですが、基本的にはもっとも越境的だともいわれています。簡単に言えば、現在は、1)新しいもの(オンライン・在宅)によって古いものを飲み込む方向が強い(そうせざるを得ない)と言えますが、ポスト・新型コロナの世界では、両者を掛け合わせた3)ハイブリッド化がいっそう進むことが予想されます。

 

いずれにしてもコロナ問題が長引くほど、あるいは感染症トラブルが今後繰り返されるほど、どの分野も様々な点で再編成されていく可能性が高まります。逆に問題の収束ないし終息の時期が早ければ早いほど、今回の件で起きた(オンライン化等の)多少の社会変化は継承しつつも、変化の程度はより小さいものになっていくものと考えられます。

 

長期化するか否か、そしてどのくらいの長期化か、どのくらいの規模の痛みを経験するか、そしてわれわれはこの経験をどう意味付けていくのかが、非常に大きな影響を及ぼすと思われます。長期化するほど、新しい生活の仕方に皆、慣れていくし、それに必要な技術や環境もどんどん開発されていくでしょうから、変化の速度は速く、大きくなっていくはずです。逆に短期であるほど、影響は小さくなるでしょう。

 

先鋭派は急進的な変化の方を歓迎しそうです。実際、オンラインビジネスや、それを促進し補助するアプリ、介助ロボット、遠隔医療等の技術開発も急速に進んで、その市場も拡大していくはずです。

 

ただし、「遠隔的な繋がり」は「“隔離された”つながり」とも言い換えられます。隔離というメタファは「特定の空間からの物理的な移動が許されず、直接人と安心して対面できない(しない)」ことを意味します。今のように技術インフラが未熟な状態では、ネット上「のみ」のやり取りに限定されてしまうことで、さまざまな制約を多くの人たちが強く感じフラストレーションを溜めていきます(既に教育のオンライン化では、「できないこと」や「難しいこと」も生じています)。

 

例えば、ネットコミュニケーションの不便さ(通信状態、人の温度感などの五感情報に欠ける等)とともに、「その1」で述べたように、「人との対面」をのぞむ声や感情など、ネットの限界についての声も強くなっていくと思われます。つまり、この「ネットコミュニケーション」もまた、しばらくは「その1」の物理的対面の否定との間で葛藤を抱えることになります。それは、外出自粛による「リアル世界の仮想化」の動きを「仮想世界のリアル化」へと突き動かし、結果、「リアルと仮想の間の最適なハイブリッド」を探る動きへと変わっていくはずです。これが、既述の越境論で言う「3)」に近い形です。

 

たとえば、今後、ネット空間上であれども、より物理的な対面状況に近い空間、あるいは人との接触が遠隔でも再現可能なさまざまな技術開発とその普及がさらに進む可能性があり、コロナ問題はそれを加速させそうです。

 

また、今までもネットかリアルかの単純な二択ではなく、多くの人が(まだリアル寄りではあったといえども)ハイブリッド化を経験してきたわけで、ウイルスの問題が収束すれば、仮想領域が以前よりも増大しつつも、リアルとの新しいハイブリッドの形が模索されていくと思われます。いわゆる人間の「サイボーグ化」(マシーンと人間のハイブリッド化)が目に見えて進むということになりそうです。

 

さらに、この過程でAIやビッグデータがより高度に発達していけば、今度はそれらの非人間が、ローカルな人々の行為を俯瞰的視点から(隠れた権力を行使して)統制し始めるかもしれません。そうすると、貨幣、国家に加え、AIやデータが、第三の巨大な権力者として確たる地位を築くことになり、その問題がさまざまに指摘されるようにもなりそうです。

 

第6回へ続く)

 

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連載のはじめに

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会   (C) 2020 Japanese Nursing Association Publishing Company.

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