連載:生きるを考える 第1回

「ユーモア感覚は世界を結ぶ」

アルフォンス・デーケン

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ユーモアは愛と思いやりの表れ

 

まず、ユーモアとジョークの違いについて説明したいと思います。日本ではジョークとユーモアは混同して考えられているようですが、ジョークとは「頭の技術」です。それは言葉の上手な使い方やタイミングのよさのことを指します。このジョークもたまにはユーモアになりえますが、きついジョークは人を傷つけるので、ユーモアではないのです。

 

ユーモアの原点は、こころとこころの触れ合いから生まれる、相手に対する思いやりです。私たちが相手を思いやり、愛を示したいと考えるとき、出発点は相手が何を望んでいるかを考えることです。ユーモアはより温かな人間関係を気づくための貴重な能力だと思います。

 

「ユーモア」の語源は液体を表すラテン語の「フモール」です。人体の中の液体、つまり体液を意味します。本来ユーモアは医学的な概念でした。中世の医学者たちは人体に含まれる体液を一括して「フモーレス」(「humores」はラテン語で「フモール:humor」、複数形です)と称し、これこそが人間を活かしているのだと考えたのです。当時の医学者は、「フモーレス」は生命の源泉の本質であり、その流れが人体に活力を与え創造的な力となって生命を満たし、補っていると判断していました。

 

私自身はユーモアの大切さを小学生のときに父から学びました。父は信念にもとづいて反ナチ活動をするような真面目な人でしたが、夜、家族の団欒のときなどには笑い話で家族を笑わせてくれる温かい人でもありました。この父の真面目さと明るい雰囲気をつくるユーモア、あれこそが理想的なバランスだと思います。

 

ユーモアを理解する上で大切なのは、こころの自由です。ユーモアは人間の自由の表れであり、ユーモアや笑いによって私たちのこころはますます自由になれます。ですから、ユーモアと自由には密接な相互関係があるのです。つまり内的な自由がない人は笑うことができず、ユーモアをなかなか開発できないでしょう。反対に、ユーモアのある人は内的な自由を味わっているとも言えましょう。

 

自己風刺のユーモア感覚と笑顔で、悲嘆と緊張を和らげよう!

 

私がユーモアの大切さを再認識したのは日本に来てからのことです。貨物船でマルセイユから横浜に着いたとき、私の日本語の知識は「フジヤマ」と「サヨナラ」のただ2つでした。

 

それから一生懸命に日本語を学んでいたとき、ある親切な日本の家族に招待されました。その家族は英語が少しわかるだけと聞いて、私は行かないほうがいいのではないかと思いましたが、日本語学校の先輩から3つのルールを覚えれば簡単だ、とアドバイスを受けたのです。「よくニコニコしてください。そしてよくうなずいてください。あとはたまに“そうですね”と言えば、大丈夫だから」と。

 

私は教えられたとおりに、おいしいごちそうを食べながらよくうなずき、5分ごとに「そうですね」と言いました。割合にうまくいったのですが、食事の終わりに危機が訪れました。奥さんが「お粗末さま」とおっしゃったのに対して、もう最後でしたから私は大きくうなずき、こころをこめて「そうですね」と言ったのです。ちょっと合わなかったかな? と思い、家に戻って辞書を引いたとき「なんて馬鹿なことをしたのか!」とわかったのでした。しかし次の瞬間、ドイツ語の有名なユーモアの定義を思い出しました。

 

"Humor ist, wenn man trotzdem lacht."(ユーモアとは「にもかかわらず」笑うことである)

 

きっとこれからも、何度も失敗することでしょう。それ「にもかかわらず」謙遜に自分の失敗を認めながら、まわりの人と一緒に笑い飛ばすことができれば、救いがあるということです。

 

(2015年10月20日、千葉大学普遍教育教養展開科目「生きるを考える」アルフォンス・デーケン氏講義「哲学・宗教学の立場から」より。完全版は書籍『「生きる」を考える:自分の人生を、自分らしく』[長江弘子 編、小社刊]に収録)

 

 

 

 

 

 

 



●参考資料(デーケン氏の著作)

 

『新版 死とどう向き合うか』

(NHK出版, 2011年)

NHK人間大学(1993年放送)をもとにして、その後の知見を加えた死生学入門書。

 

『よく生き、よく笑い、よき死と出会う』

(新潮社, 2003年)

 上智大学最終講義と死生学研究の集大成。

 

『第三の人生─あなたも老人になる』

(南窓社, 1984年)

ニューヨークの大学院在学中に英語での書下ろし。現在10数ヵ国語に翻訳されている。特に将来、看護師として、あるいは老人ホームで働く人におすすめ。

 

『あなたの人生を愛するノート』

(フィルムアート社, 2007年)

こころと対話しながら読者が書き込む新しいライフノート。

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アルフォンス・デーケン(Alfons Deeken)

1932年ドイツ生まれ。1959年初来日。1965年カトリック司祭叙階。1973年ニューヨークのフォーダム大学大学院で哲学博士の学位取得後、再来日。1977年 上智大学で「死の哲学」を開講し、25年間にわたり講じる。1982年から一般市民を対象に「生と死を考えるセミナー」を主催。1991年全米死生学財団賞、第39回菊池寛賞を受賞。1998年「死への準備教育」普及の功績により、ドイツ功労十字勲章叙勲。1999年第15回東京都文化賞、第8回若月賞受賞。

講義を振り返って

 

 

 

担当教授:長江弘子(前・千葉大学大学院看護学研究科特任 教授 / 現・東京女子医科大学看護学部看護学研究科 教授)

 

デーケン先生は5年にわたって毎年、秋に講義をして下さいました。お話はいつもにこやかにユーモラスで「見かけは外国人ですが中身は日本人」であるとか、「何もデーケン」と冗談をおっしゃっては学生を笑わせてくださいました。その温かさとユーモアは学生への愛情の証、学生との出会いを喜んでおられる証だったのだと思います。

 

死を見つめることは「生きる」を考えることにつながり、当たり前のようにいつもの日常の中の人とのつながりや自分の行動の一つひとつの意味を問うことなんですね。そう考えると「生きる」を考えることは、自分が何を大事にしてどう行動するかということで、大げさなことではないのです。

 

デーケン先生は、どこでお会いしてもいつも笑顔でハグしてくださり、出会いを覚えてくださって、あったかくオープンに受け入れてくださいました。私の話を聞いてくださり、先生も今考えていることを話してくださいました。それは出会いを大事にして自分を開きつながりをつくる、そして話をすることを通して自分のあり方や存在を確かめる、深い自分への問いにもつながることなのですね。

 

同時にそれは、ともに語り合いをした相手にも同じことが起こっているのかもしれません。人は一人で生きているのではない、一人では生きていけない、さらに誰かとともにいることで自分を知り、どう生きるかを問うことができるのです。

 

デーケン先生は死を取り上げながらも、「生きる」を考える大切さを、そして人との出会いとつながりで考える尊さを教えてくださいます。

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