部分と全体の関係理解を身体化する
哲学書を読むことに戻りましょう。書物によって文章の濃度が異なるため、担当箇所の分量もそれぞれですが、メルロ=ポンティの『知覚の現象学1』の場合は、1回の授業で、3時間をかけてほんの数行を読み進めることができるのみです。この調子で25頁の序文を読み終えるために、3年間を要しました。
しかし、授業ごとに取り上げられる数行のみを読んでいるだけでは、そこに著されていることの意味を理解することはできません。したがって、担当者は前回の内容もいくらか通して読むことになるのです。部分の理解は全体の理解に依存しており、全体の理解は、部分の理解によって実現します。(入門の「矛盾」と同じ構造がここに潜んでいるのです)。
だから院生たちは毎回、それまで読み進んだ内容を振り返りつつ、担当箇所の数頁を理解しようとします。部分と全体の関係の理解は、実際に行うことによって知らぬ間に身体化されて、腑に落ちていくのです。
しかし、まだこれだけではわかりません。原書に書かれたフランス語の翻訳が理解を難しくしていることもあります。複数の翻訳書と英訳を突き合わせ、言葉や文のつながり、つまり文法も確認するのです。哲学の文章には、専門用語やそれが著された国の教養にかかわる例えや寓話なども頻出します。これらを理解するために、彼らは『現象学事典』や哲学者について著されている書物などを、いつも手元に置いています。
哲学者の写真、歴史的背景、家族との関係、恋話、交友、社会的活動などに触れると、親近感が湧くものです。これらの作業すべてをもとに作成されるレジュメは、膨大なものになっていきます。
思うに、この作業を通して行っていることは、担当箇所に書かれていることの理解に止まらず、その周辺を取り巻く知識を関連づけ、歴史とともにその人柄と時代状況にコミットし、他の哲学者のメルロ=ポンティに対するコメントに応答する等々を、これもまた知らぬ間に行っていることになります。哲学書の理解は、それを我がものとしようとして考え抜くことを通して、同時に、思想をその思想家・哲学者の生きた時代性とともに受肉化していく、途方もない作業なのです。
先に触れた杉本さんは、メルロ=ポンティを読むことは、単に文章を読むことではなく、メルロ=ポンティが考えたのと同じように考えることだと記されました。授業での発表の機会はまさに、その実現の機会なのです。そうあってほしい。
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