考えること、学ぶこと。

column

考えることの体力と

その身体化

 

このように見てくると、メルロ=ポンティ哲学を学ぶことは、事象の成り立ちや構造を理解していく切り口を学ぶこと、あるいは、これまで気づいていなかった事象が生まれる次元へと分け入る態度を養うことと言えるかもしれません。実際に私は、植物状態患者と看護師との交流が、はっきり自覚できていない前意識的な次元から始まっていることを、メルロ=ポンティの哲学によって気づかされました。あの時の驚きは、今でも覚えています。(編集部注:このエピソードについては『語りかける身体──看護ケアの現象学』ゆみる出版、に詳しい)

 

この驚きは、経験しているけれどもそれとして自覚していなかったことの気づきと言えますが、あっけなく上空飛翔的見方や説明の文体に陥って、別の意味で驚くこともあります。それに自分で気づくことは、なかなか難しいのです。授業や研究会で互いの発表に触れ、他者の踏み外しに気づき、指摘し、指摘されて、自己の踏み外しにも気づく。こうした発表や議論の場はそのためにあるのです。そこで「事象に忠実か?」と問うことは、私のもう一つの仕事です。

 

考えに考え抜いても、わからない。しかしそれでも考え抜く。そのことを言葉にしてみるが、これにもつまづく。しかしそれでもまた調べ、議論する。こうした取り組み方は、哲学がはらむ矛盾(例えば、メルロ=ポンティの現象学)への応答から生み出されたのです。

 

この応答を“千本ノック”と言いましょう。

 

そしてこれを、どんどん打ち返してもらうのです。課程を修了してなお、打ち返しに来る者もいます。打ち続けなければ、考えることの体力とその身体化は持続しないからです。そのことも授業に、哲学に教えられました。

 

患者や利用者の理解や、彼らへの援助的なかかわりを主眼とする看護の営みも、同様の成り立ちをしているかもしれません。相手の状態に応じて、その理解の仕方、かかわり方が定まるからです。相手が考えているように考えてみること、それは、哲学的な対話が相手の「関心」に関心を向けることと同じ構造です。相手のことを勝手にわかってしまわずに、辛抱強く傍らに身を置く。その時初めて、看護ケアが生まれてくるように。

(2016年6月)

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