ケアの現場から立ち上げる現象学
西村ユミ ✕ 村上靖彦
科研費「医療現象学の新たな構築」第1回研究会より
対 談
ディスカッション 前編 - page 2 -
個別と普遍をめぐって
榊原 じゃあ今度は村上さんから西村さんへ質問していただきましょうか。
村上 今日は久しぶりに一緒に登壇してお互いの共通点が見えました。まずご本の中で取り上げられた「引っかかり」という言葉の意味づけも僕にとってすごく大事なところですし、また僕らの研究というのは「個別事例の分析は普遍的な可能性を獲得しているか」という点をいつも責められ続けているわけですが、それを説明する一つの結論を「側面的普遍」(『看護実践の語り』p.208)という形で出していただきました。
これにはほぼ納得したんですが、僕自身としてはこんなふうに考えています。たとえば異分野の僕が関わることで看護師さんの経験が触発されるわけですよね。人間としての可能性の中に、僕も潜在的に持っている可能性として看護実践みたいなものも含まれていて、その限りにおいて触発が可能であると。そういう可能性を僕らはみんな普遍的に共有しているのだから、逆に個別であることが可能性の一つひとつを示してくれると思うのです。哲学に詳しい方ですとこれを「ライプニッツ的だ」と思われるでしょう。
もう一つこの問題で重要だなと思うのは、個別事例の分析でなければ触発されないこと。たとえば1万例のデータを集めて統計的に有用性を示せば「ああそうだよね」と思えることはあっても「突き刺さる」ことがないのです。この「突き刺さり」は同意ばかりではなく反発の意味でもあり、たとえば僕が発表したデータに対して「そんな看護はあり得ない」という電話がかかってきたり、メールで2ページくらいの添付文書が送られてきたりするんです。これはすごく面白いなと思います。
榊原 それはつまり村上さんの「問い」への挑戦状ですよね。
村上 そう。僕はラッキーだと思うのです。つまりそういうリアクションがあるのは僕の分析がある意味でうまくいっているからで、さらにその方からインタビューとればいいのです。
榊原 私もそう思います。
村上 もうひとつ、西村さんはご著書の中で「私にとっては、経験を聴き取る方法であるよりもむしろ、共同して看護実践や経験を言語化する創造的な取り組みだった」と書かれています(『看護実践の語り』p.vi「はじめに」)。つまりすでに出来上がった経験をめぐる言葉を聞き取るのではなく、その場でつくり出すことを強調しておられますね。これについて説明をしていただけませんか。
西村 まず「引っかかり」という言葉は、この研究をし始めたころに、参加をされた看護師さんたちがくり返し語っていたのです。他に「心残り」などいくつかの語り方があったのですが、集約するとこの言葉に落着くようになりました。この「引っかかり」をもった経験を語りながらもやがてそれが取り除かれていく瞬間が、グループインタビューや個別インタビューの中でたびたび起こったのです。
その場で話しながら経験の意味がどんどん変わっていく。じわりじわりと、あるいは飛躍的に変化することもあります。たとえばマンツーマンで話しているときは、私の質問に答えながら自分が語った言葉に触発されて「今思えばこうだった」とか「そういえば…」というふうに、どんどん経験の意味や理解を変えていくのです。
語り合いながら新たに経験の意味をつくり変えていく。それも他者に問われなければ語り始めなかった事柄の中でそれは起こっているのです。もう一つは、はっきり自覚していないけれどもいつもすでにしてしまっていること、例えば「駒に追いつくように動くんです」とか「映像に追いつくように動いているんです」とか、自分たちが実践を主体的に駆動していくだけではなく、その先に今から知ろうとしていることが見えてきてしまう、その見えてみてしまうことに追いつこうとして動くらしいのです。こうした、語りの中で生まれてきた言葉から、実践の先取りというものがすごくよく見えたのですね。
これから患者さんの状態がどのように変化するかがパッと見ればわかってしまう、未来まで見えてしまっている事柄に対してケアをしていく、そのケアが未来を変えていく…。それらに追いつくように実践をするらしいのです。これが「駒に追いつくように動く」という表現で語られるわけです。そしてこれは看護師さんがたが予めもっていた表現ではなく、インタビューの中で生まれた新しい言葉なのです。私があえて「定義をしない」と言った理由は、インタビューという対話の中にこそ、私たちが思ってもみなかった事柄、その表現が生み出されてくる可能性があるからなのです。