写真提供:アーダコーダ(今回の取材とは別の講座での哲学対話の様子)
堀越 じゃあ、話のきっかけとして、みなさんが「なんだかんだ言っても、私って幸せだなあ」と思うことについて話してもらいましょうか。
女性A 食事を一緒に食べる人がいて、笑顔で食べられると幸せを感じます。
女性C 先日、健康診断で問題が見つかり、詳しい検査を受けたんです。その間全く食事を摂れなくて「食べられるって、とても幸せなことなんだ」と思いました。終わってから、普段は食べもしないようなものも、口にしましたね(笑)。とにかく、食べられること自体が幸せでした。
男性B 僕の場合は、なんとなくぼんやり考えた時に、幸せだなって思うんですけど、それを吟味していくといろんなアラが見えてきてしまう。ただざっくりと考えた時のほうが、幸福感があるなあって思いました。
堀越 よくわかんないな。それは、具体的にこれだと言えないけれど、日常を振り返った時に、さしあたって「まあいいか」と思えるようなこと、なのかな……。
男性B う〜ん……。
女性D 自分の中の「こうだったらいいな」を考えていくと、幸福の形がだんだん見えてくる代わりに、できていない現実も見えてくる、ということじゃない?
男性D ぼんやりと考えている時の幸福というのは、快楽や心地よさという感覚的なものだから、それについて考え始めると、たちまち蒸発してしまうような……。
男性B そう、そんな感じがします。具体的な言葉にはならないような「ああ、なんか悪くないな」っていう、身体的な感覚ですね。
堀越 でも、例えば明日、自分が警察に捕まるかもしれないような場合には、なかなかそんな気持ちにはなれないでしょ。
男性B そういう時はダメですね(笑)。
一同 (笑)
堀越 我が家では、食後に必ず家族3人でアイスクリームを食べるんです。僕にはこの時間がとても幸福なんだけど、何年か後には、娘が自立して家を出て行くかもしれない。つまり、いつかはなくなって取り戻せなくなる「今」を実感した時に、かけがえのない幸せを感じるんです。
女性D でも、娘さんはその時に、同じ幸福感を共有はしていないと思うんです。私も親として同じ幸福を感じる立場だけど、子どもがそうじゃないこともわかる。つまり、幸福感は自分の中から出てきているものだから、どこまで行っても自分が考える幸福感なんです。
女性A 私も子どもがいるんですが、彼らのほうは早く家を出たいとか、もっと素敵な家庭がいいとか思っているかもしれないし(笑)。でもお子さんが、ご両親とアイスを食べることが楽しいって言ってるのなら、それもウソじゃないと思うんです。親子の幸せは同じように見えて、それぞれ別のものだと思います。
女性B 感じる幸せが年齢によって違うのかな。若い頃は自分自身がこうなりたい、こうありたいっていう幸せだったのが、今は家族や大事な誰かに対して、それを感じたり期待したりしますね。
女性D 誰かに対する期待とか、誰かと共有する時間とか、幸せには常に「誰か」が必要なんでしょうか。幸せとは、究極的には個人がそれぞれ感じているものだと思うんです。だけどその感じ方にはいつも誰かが関係していたり、共有することが大事なんですよね。その間にあるものって何なのかな……。
男性A 幸せとは、ある心の状態です。物質でもなければ情報でもなくて、その人だけのもの。それを共有するってどういうことだろう。
堀越 相手が幸せと思っていることに、自分も幸せを感じたとしても、それは決して「イコール」ではない。だとすると、共有していることで感じている幸せ感というものには、前提となる実態がないことになりませんか?
男性D 本当のところ、人と人は「共有」ができないし、欲しいものはいつまでも手に入らない。そしてかけがえないものは、いつかなくなってしまう。誰もがただそれを望んでいたり、期待しているだけなのかも。つまり幸福というものは「ない」のかも……。
一同 えー(笑)。
男性C 幸せって「求めるもの」なんじゃないかな……。そこにあるんじゃなくて、欲しいと思っている状態の、いろいろな形なのかもしれませんね。
──以下、対話はつづく。
ファシリテーターは全体を仕切るというより、話題の枝を広げたり新しい視点を提供する役割を担っていた。メンバーは皆、自分の意見を言うことに精一杯で、なかなか突っ込んだ質問までできない。それでも、各人それぞれが議論を整理しようと試み、適切な言葉を与えようと懸命に考え、いろいろなキーワードや解釈が生まれていく。
哲学対話に慣れない自分たちは、もともと頭の中にある概念や言葉だけで議論を解釈しようとしがちだ。相手の話をよりよく聞き、理解するための質問がどんどん出るようになれば、考える深さと幅が今よりもずっと増え、今の自分の枠を超える思考を手に入れられるのかもしれない。