[2]高齢者の問題を
自分の行く末として
考えられるか
池田 文化人類学にもジレンマがあるんです。グローバリゼーションの結果、先住民と呼ばれる人たちの暮らしにペットボトルなんかが入るようになると、彼らはそこら辺にどんどん捨てる。そうすると「リサイクルを教えなければいけない」ってことになる。
中岡 そういうところではペットボトルを捨てても別にいいんじゃない、って考え方もあるよね。
池田 彼らをサポートする先進国の人たちは、みんなエコ意識も高く世界の人権問題などにも精通しているわけです。ダイバーシティ(多様な文化の共存)や儀礼的に行われている女性性器切除の根絶活動などもそうですね。
西村 人類学の研究が今までのように成り立たなくなってきているんですね。
池田 そう。誰もが同じ「地球市民」になってきているから。
西村 池田さんはフェイスブックでも「いわゆる未開人と言われる人々の調査に行ったら、みんな携帯を持って世界に向けて発信していた。どこが異文化なんや!」って嘆いていましたね。
池田 こんな話もあります。ジャレド・ダイアモンドという進化生物学者が書いた『昨日までの世界』という本のエピソードで、著者がフィジー諸島の島民と交わした会話です。相手の男はアメリカに行ったことがあり、そこで一番嫌だったのは高齢者の扱いだと言う。フィジーでは年寄りは自分が生涯過ごした場所で家族と暮らす。たいてい子どもが面倒を見るし、歯がダメになったら代わりに噛み砕いて食べさせたりもする。自分たちはそこまでやる。でもアメリカではどうだ? 年寄りはみんな施設に送り預けっぱなしで、子どもはたまに会いに行くだけ。この国は老人を捨てたり親の面倒を見ない人ばかりなのか? ってね。アメリカ人がよかれと思ってつくり上げた仕組みや制度が、他者からは非常に残酷なものとして映るんですよ。
中岡 なるほどね。
池田 それで次に、学生たちに老人虐待や遺棄に関するいろいろな資料を用意して議論させるんです。すると「えげつない」とか「かつてこういうことしていたんですね」とか「でも、なんかわかる気がする」とか言うから、そういう社会では遺棄する時に自分の老後のイメージを前倒しで学習しているんだよって話すんです。君たちは自分が息子から虐待を受けたり遺棄されたりするなんて想定していないし、考えたくもないやろ? もう「彼らにとってはいいことなんだ」なんて思えないでしょ? むしろ「自分だけはごめんだ」って考えるんじゃない? だから、いわゆる未開人の気持ちがわかるというのと、彼らの気持ちと同じ水準に立てるというのはまた別のことなんだよと。
中岡 日本の場合、映画にもなって評判を呼んだ『楢山節考』は、貧しい民が年老いた母を山に棄てにいくシビアな話だけど、まだ救いがあるのかな。
池田 少ない食べ物を老人にあげたくないから殺したり見捨てたりするんだ、と説明する民族誌もあるけれど実態は必ずしもそうではない。とくに生態学者はそういう説明をするんです。簡単に死んでしまうからとか、栄養条件が悪いからそんなに苦しまなくてもいいんだとか。それが合理的なシステムであるということを説明しようとする。
西村 医療で言えば、高齢者にどこまで積極的治療を行うかという問題がありますね。個々人の考え方の違いやケースごとに判断が異なるのは当然として、90歳を超えても侵襲性が高い手術を行うことに医療者自身も躊躇を感じることはある。いくつかの国では終末期や緩和ケアに関連する制度やガイドラインが整備され始めていますが、その国の文化的な事情を反映しているため、基準もさまざまです。オランダのように安楽死を法的に認めるところもあったり、ある年齢以上の患者に対して、延命治療にかかわる終末期プランを用意するよう、国の保険サービスでガイドラインをつくろうとしている国もあるようです。このガイドラインが例えば「75歳」を積極的治療の上限とすれば、それ以上の年齢の患者に治療をしなくても倫理的な問題とならなくなる可能性もあります。
池田 日本で高齢者にも積極的な治療を続けるのは、公的保険制度が充実していることに加え、「どこまで可能か?」という医学的な関心もあるんじゃないですか。一方で、ある国が「これだけの資本を投下し、これだけの余命があるのなら、ここに線を引けば社会的なコストはこれぐらいに収まるぞ」という考え方を国民の間で共有すれば、それが倫理の課題になって日本の医療が反人道的に見えたりもするだろうね。
[2]高齢者の問題を自分の行く末
[2]として考えられるか
「90歳を超えても侵襲性が高い手術を行うことに医療者自身も躊躇を感じることはある」── 西村