看護の立場から ②
細野知子
(首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程)
「哲学入門」、その言葉自体は別段難しいわけではありません。でも、私自身が実際にそれを始めるとなると、どうも想像していたこととは少し違うようです。
「哲学」の門外漢である私はまず概論書を読みあさって、フッサールやメルロ=ポンティなどの著名人のことや、聞き慣れない概念を覚えていこうとするわけですが、杉本氏はそれを「本質的なこと」ではないと言います。重要なのは「自分自身で考えること」であると。
でも、それって、いったいどういうことなのでしょうか? 本稿では、そのことについて私たちが普段行っている「日常的思考」を知ることから、わかろうとしています。どうも、“考える”と言う時の“考え方”にヒントがありそうです。
看護の現場に身を置く私たちなら、解剖学に始まる医学的知識、患者理解のためのさまざまな理論、日々更新されていくエビデンス等々、多くのことを学び続けています。
それらの知識を使うことは、チームで看護する時の共通理解を高めますし、看護系の学会などで発表する時には“しっかり考えらえた”ものとして説得力を持ちます。
このように、「すでに他の誰かによって果たされた看護の考え方」を前提にして、つまり「日常的思考」によって、私たちは他の誰とも共有できる、よりよい看護を“考えて”います。それは特に、チームでの実践の質や看護界の知識レベルの向上を、可能にしているのではないでしょうか。
ところが、最新のエビデンスから経験則までを総動員して“考えた”のに、うまく行かないことってあります。例えば看護学生がそんな場面に直面して、患者さんを中心としたその場全体が硬直してしまう。だけど実習が終わる頃にはなぜかそんな状況もほぐれていた、なんてことはありませんか?
おそらくそこでは、問題解決とは別のことが起こっていたのではないでしょうか。その学生さんは、治療や看護について一所懸命“調べて考えた”はずです。でもそれだけでなく「私はこの実習を受けている間、一体どうしたらいいのだろう」と、“自分の問題として考え抜いた”結果、必然的にある接し方に至ります。その独自のかかわりが、患者を取り巻く状況の何かを変えたのです。
ベテランや新人、教員や学生、誰にでも“この私にしか考えることができない考え方”、つまり「哲学的思考」なるものがある。どうやら、これが「哲学入門」の手がかりのようです。