看護の立場から ⑥
(首都大学東京大学院 人間健康科学研究科 博士後期課程 看護科学域 村上優子)
「自由とは何か」そう改めて問われると、答えるのに困ってしまいます。そして今回の記事を読むと「自由」とは何かを問われているだけでなく、自分自身の生き方についても問われているように思いました。
「自由」には、いろいろな考え方があるようですが、考え方によっては私の生を否定することにもなると書かれています。では、「自由」が私の生を否定するとはどういうことなのでしょうか。私は、脊髄損傷の患者さんの経験の探究を研究課題としておりますが、それは彼らとかかわったとき、どう声をかけたらいいのかわからず、じっと話を聴くことしかできなかったという経験があったためです。もっと何かできることがあったのではないか、ずっとそう思っていました。
しかしこのような思考が、今ある現実の生を否定する「自由」の考え方だというのです。つまり、そのときの私の関心、患者さんの状況をなかったことにして別の可能性を思考するということであり、誰とも代わることのできない私が生きている現実のなかで考え、行為した「じっと話を聴くこと」を否定することになるということなのです。
では、私の「自由」とはいったいどのようなことなのでしょうか。例えば、目の前の患者さんにかかわろうとするとき、私の患者さんへの関心や気持ち、患者さんの表情やまわりの状況、いろいろな関係のなかで声をかけてみたり、話を聴いてみたり、そっと傍にいてみたり、そのつどの状況のなかで考え行為していると思います。
そして、「そうでしかありえないこと」だけを考えることが自由であるなら、そのつどの状況のなかで考えたそのつどの行為が、そのときの「自身を原因」とする自由な行為であるということなのです。つまり、たくさんの可能性を想像するのではなく、私が私の関心や患者さんの状況のなかで私自身が考えることができるひとつの行為を創造することであり、これが私の「自由」なのです。
このような「哲学的思考」は、私たちが、答えのない問いについて自分にしか考えることができないことを考えること、今ある現実を誠実に生きようとすることを「それでいいんだよ」とそっと支えてくれているように思います。