注3:客観性や一般生
第3回でご紹介する予定の哲学者メルロ=ポンティは、客観性やいわゆる一般性といわれるものが私の経験や思考に先立つと考えることを批判し、対象=客体(objet)が如何にして生まれてくるのかを記述しました。また、彼はこうした対象=客体の誕生に密接に関係している「一般性」について言及しています。この「一般性」は、私たちが日常的に用いている一般性という言葉とかなり異なります。
例えば、「この私」は、いついかなる時でも自分や自分が関わるもの・ことに対して明白な意識を持ち続ける純粋な個人(あるいは、特異なもの)ではありません。ある事について考えているとき、ふとした瞬間に別のことに考えを巡らせていたという経験や失恋して悲嘆にくれていても、気づいたら眠りに落ちていたという経験が示すように、私たちは個別的な意識によって「この私」のすべての行動や思考を制御しているわけではないのです。その意味で、一人称としての「この私」という個人(あるいは、特異なもの)は、非人称で一般的な実存でもあると言えます。
そもそも、メルロ=ポンティが主著『知覚の現象学』(1945)のなかで「私たちが実存するや否や、……すでに一般性が介入してきて、自分自身への臨在も、この一般性によって媒介され、私たちは純粋意識ではなくなるのである」(pp.513-514/p.750)と書いているように、特異な「この私」は「一般性」と切り離して考えることができないのです。
この「哲学入門」では、特異性にフォーカスしていますが、実はこうした「一般性」を考えることなく特異性について語ることはできません。もちろん、このような「一般性」は、人間一般のように、特異な「この私」に先だって考えられるような、いわゆる一般性ではありません。
それは、「人間」のように対象化できるものではなく、具体性を伴わない暈(かさ)のようなものだといえます。そして、この「一般性」、つまり「この私」が一般的実存でもあることは、「この私」が固有の身体を持つということと、即ち身体的実存であるということと無関係ではないのです。
なお、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』(Maurice Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception, Gallimard, 1945.)からの引用は、基本的にメルロ=ポンティ『知覚の現象学』, 中島盛夫訳, 法政大学出版局, 1982年. の訳文に従いました。ただし、必要がある場合は、変更を加えています。引用箇所については、( )内に「原書のページ数/翻訳書のページ数」を指示しています。