ロボット発言事件について

 

その経緯については『ドキュメント 臨床哲学』(鷲田清一監修/大阪大学出版会)で多角的に検証されています。以下はその中の西村ユミさんによる証言の一部。

 

西村:ある日の金曜6限の臨床哲学授業で私が発表するよう招かれ、植物状態で、意識の兆候がはっきりわからないような患者さんの看護の話をしたんです。そういう患者さんが寝ておられるときにナースはどういうふうに何に促されて声をかけているのかという話をしていました。そのとき当時大学院生だった堀江さん(編集部注:大阪大学大学院文学研究科倫理学・臨床哲学教授 堀江剛氏)が、状況を読み替えていわゆる思考実験をして、仮にその人がロボットだった場合には、ナースは同じような行動を取るのか、それとも変わるのか、ということを発言されたと思います。これは、哲学的な議論においては非常によくわかる問いの立て方なのかもしれません。しかし、その発言をその文脈で聞いて、私もたぶん同じように思ったんですが、私と一緒にその場にいたある看護教員が、「患者さんの看護の話をしているのに一体どういうセンスをしているんだ」という風に怒っておられたんです。─(後略)─

(p.15、第1部 動き出す/2.区切りをつけること─臨床哲学をどう語るのか/「ロボット発言事件」/証言1、より引用)

 

さらにその場に居合わせた一人、本間直樹さん(大阪大学CSCD准教授)は、そこでの検証を次のように締めくくっています。

 

本間:ここには二つの問題があるのではないでしょうか。中岡さんがこの事件を言い出したのですが、それを哲学者の身振りを反省していく一つのメモリアルとなる出来事として捉えている。言い換えると──これは今の大阪大学コミュニケーションデザイン・センターにつながるわけですが──それぞれの専門知の持っている枠組みを見せ合いながら、それを超えて対話していくということを、今のような形で考えるきっかけとなった出来事であると中岡さんは言っていて、そういう議論の仕方もできると思います。また小林さん(編集部注:大阪大学CSCD教授 小林傳司氏)も、このロボット事件を振り返るときに、哲学畑にはよくわからない現場の相場観というのはあり─(中略)─自分自身が哲学者だから、哲学の持っているラディカルさはよくわかるが、そのラディカルさをいつでも発揮してよいものか、現場の具体的な前提をあえて疑う、あるいは別の前提を立てるということをつねにしてよいのか、それについては確信がない、と。─(後略)─

(p.30、第1部 動き出す/2.区切りをつけること─臨床哲学をどう語るのか/「ロボット発言事件」/証言2、より引用)