ヘーゲルの言う「悟性」について

 

ヘーゲルによると、我々は最初、感覚が感じるままにものごとを自然で当たり前のように受け取るんですが、意識化することによってものごとに対する認識を深めてゆくんだと言っています。例えば善悪の判断を例にとってみましょう。人々はよいものはよい、悪いものは悪いと自分の自然な感覚に従って判断しています。でも、対話を通して別の人とある具体的な判断について議論してみると、人により善悪の判断が異なっているものがあります。ある人が「ものすごくよい」と言っているのに、別の人は「ちょっとだけよくて、困ったこともある」と主張するのです。この違いを放置しておけば「人によって善悪の違い」があると思い込んでしまいます。

 

でも「なぜ私にとって当たり前の判断が、別の人にはこう違って見えるのか?」と問いかけると、その安心はいっぺんに吹き飛んでしまいます。この違い(差異)への気づきが、真理というものについて探究する原動力になるのです。なぜなら真理とはどのような時代、どのような社会の人々にとっての共通の「好ましいこと(共通善)」や「変わらないこと(普遍性)」や「だれにでもわかること(合理性)」というものに裏付けられているからです。

 

ヘーゲルに言わせれば、そのような真理に到達すること(=目的)だけが重要なのではなく、むしろそれを実現する過程を他ならぬ私たちが認識すること、わかることが重要なのだと強調します。彼はそのような得心をもって理解する(=「悟性」)自己について、さらに自分の意識の外側から眺めること(=反省)を「精神の自己意識」と呼んでいます。

 

先に述べた「区別している自分に気づくこと、意識的であること」ということが、ここで言う「悟性」であり、看護実践においても必要なその能力は、教養教育を通して身につくと思うのです。このことはとても重要だと考えています。

(追記:池田光穂)