注1:「自身を原因」とする自由な行為

 

こうした自由は「自身に基づく」故、自身の生に誠実な思考や生の行使であると言えるわけですが、しかし、単純に「自身を原因」とする自己原因的な自由ではありません。第4回で見たように、コミュニケーションや関係なくして哲学的思考を行使することはできないからです。つまり、あなたが関わる特異な「この人」や「このもの」が、外部からあなたの思考を駆り立てているともいえるのです。その意味で、あなたが関わる特異なものは、ある意味で外部の原因であるということもできるでしょう。

 

しかし、自分自身が十全で純粋な原因ではないのと同様、こうした外部の原因も十全で純粋な原因ではありません。内部の原因も外部の原因もそれ自体では自由の原因たりえず、メルロ=ポンティが「自由とはつねに内と外との出会いである」(p.518/pp.757-758)と書いているように、自由であるためには、この内と外との出会いが必要なのです。そして、内と外とが出会ったときにだけ、あなたはあなただけが考えることのできることを考ええることができ、またこうした思考に条件づけられてあなただけが行うことのできる実行を行うことが──つまり、自由であることが──できるのです。

 

なお、メルロ=ポンティについて自由について考えてみたい方は、第1回の「読書案内」でご紹介した『知覚の現象学』の最後の章をご覧ください。