看護の立場から ⑤
(首都大学東京客員研究員 坂井 志織)
「世界に一つだけの花」と言えば、少し前に流行った明るい歌が思い出されますが、読み進めていくと「何もせずに世界に一つだけの花であり続けることはほぼ不可能」とあります。自分はどうなのだろうかと、中には衝撃を受けた方もいらっしゃるのではないでしょうか…。でも、安心してください。看護の場を振り返ってみると、私たちは「考えることによる『私』の特異性」「あなた自身の特異性」ということに日々出会っていることがわかります。
たとえば、私には患者という存在、看護師という存在、そこで生まれるケアという営みが頭に浮かんできました。看護師が日々関わっている患者は、まさに「世界に一つだけの花」です。患者たちは、病いによって立ち止まらざるを得ず、自ずとさまざまなことを考えさせられてしまいます。そこには、その人がこれまで生きてきた背景も含み込まれているため、それぞれの言動に“その患者さんらしさ=特異性”を、私たちは常に見て取っています。
また、“患者さん”たちは生物学的な人体ではなく、それぞれの生活の中で培われた習慣、くせ、多様な「できる私」を含み込んだ“からだ”でもあります。「固有の身体」と言われているものです。ところが、病いによってこの「できる私」が変わってしまいます。脳梗塞などで生じる麻痺、がんや抗がん剤の副作用による制限、認知症などその現れは多様です。看護師はこのような患者に向き合い、寄り添う中で、同じく考えることを促されています。つまり私たちも、患者とのかかわりの中で「世界に一つだけの花」となり実践しているというわけです。
そもそも看護という営みは、患者とともに新たに“できる私”を探していくことだとも言えます。病いによって二重の意味で「固有の身体」となった患者に出会った時、画一化された標準的なケアだけでは立ち行かなくなります。患者も看護師も「固有の身体」「世界に一つだけの花」同士としてかかわり、“できる私”を協働でつくり上げていくことが、常に背後で目指されているように思えます。
「特異性」と聞くとなにか難しいことのように思えますが、私たちが看護として大切にしていたものでもあります。標準化していくことが目指される一方で、その難しさが常に生じているのは、このような特異性を看護がその核として持っているからなのかもしれません。こんなふうに、哲学的思考と看護は知らない間につながっていたのですね。